2000年ウラジオストック 留学 12

f:id:ksboon:20201114215024j:image留学中、僕は酒を飲む機会が多かった。特に女の子たちと仲良くなり、頻繁に彼女らの部屋に呼ばれたので浮かれて飲む量も増えてしまった。そしてYの寝た部屋に帰ってきては、トイレで吐いたりすることもしばしばだった。特に、女の子たちに振り向いてもらいたくて、まあ色々と恥ずかしい足掻き方をしては失笑を買うことがしばしばで、8月後半にもなると段々と退廃的な気分になっていった。くわえタバコで街を練り歩るなどしてウラジオストックの市街地を彷徨い歩くようになる。

 


そんなある日、僕は朦朧とした状態で海辺の露天が集まった場所を放浪していた。ロシアは当時不景気だったため、町は昼間から酒をあおる失業者の中年男性がちらほらといた。彼らは月曜の昼間から街中をビール瓶片手に友達と談笑しながら練り歩くのである。

 


僕も真似してバルチカビールを片手に海沿いの露天街を歩いた。屋台の食べ物などもつまみつつ、酒をあおって歩いた。屋台にはジュース、スナックなどのほかに小海老の揚げ物、ピロシキなどが安価で売っていた。気分を紛らわすつもりだったが、酒とツマミで僕はますます退廃的気分に浸りつつフラフラしながら街をさまよっていった。

 

(もはやどの辺りを歩いたのか記憶は朧げだが、参考までに2019年撮影のウラジオストック市街地写真をあげよう。当時私がほっつき歩いたのはこの辺りである。2020年追記)

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ふと気づくと、町外れの海沿いにいた。やけくそになった私はシャツのボタンを全部はずして服をはだけさせた(ちなみに、ボタンを全部はずしてシャツをはだけるというこのファッションは、ウラジオストックにおける夏の風物詩であり、多くの現地住民はそのようにしていたが、僕がこれをやると何故か道行く女性に嘲われるのだった)。

 


その姿勢で堤防の上でビールをあおって咆哮していると、なにやら遠くの方からぞろぞろとガラの悪い団体がこちらに向かってくる。身長が低いことから子供のようだったが、ニヤニヤした顔をして随分とガラの悪い雰囲気だった。

 


二十人はいるだろうか、その団体はこちらに向かってぞろぞろと近づいてくる。間違いなく彼らは金を持っていそうなアジア人である僕をカツアゲのターゲットにするつもりでこちらに向かってきているのだ。子供なのだが、どうやらチーマーのようだ。子供のチーマーだ。

 


僕は先ほどまでの倦怠感、退廃に浸っていたことも忘れ、そそくさとその場を逃げ去った。幸い彼らはそれ以上追ってくることはなかった。

 


今思えば彼らはストリートチルドレンが徒党を組んだものだったのではないかと思う。貧富の差が激しいロシアにはホームレスのみならず年端も行かない子供たちが路上生活をしている例が多い(2019年では、もはや市街地に浮浪者は見られなかった 2020年追記)。厳しい現実に晒された子供たちが徒党を組んで日々の糧を得ようとするということはありえる話である。はだしのゲンにも子供の浮浪者が出てきて、生活のために軽犯罪に手を染める描写が出てきたが、同じような子たちだったのではないか。

 

(全く関係ないが、上の方で酒とツマミの話が出てきたので、ウラジオストック における食べ物の写真をアップする。ウラジオストック 駅前にあるウズベク料理店で食べたシャウルマだ。2019年撮影)

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以下、2020年追記である。2019年再訪問した際は、こうした浮浪児や浮浪者は全く見られず、新しく綺麗な建物も増えてすっかり裕福な先進国のような街になっていた。この21世紀に入ってからの20年で恐るべき変化と発展がこの街で起きたということを肌で感じたものである。

今でこそ日本から二時間で行けるヨーロッパなどと言われているが、その背景には私が見聞したような大変な時代がついこの間まであったのだということを読者諸賢には堪能していただきたいものである。