2000年ウラジオストック留学⑦

食生活

食事は基本的に食堂で取ることができたが、土日などは休みだったし夜遅い時間は閉まっていたため必然的に自炊の必要があった。 

 

 

  まずいことに私もYも自炊には不慣れだった。Yはそれでも多少自炊経験があったものの私に至っては料理経験は皆無といって良かった。

 

 

(yと筆者が生活していた、元極東大学の学生寮。2019年撮影)

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そのため私より比較的料理経験あるTが食事を作ることが主だった。 

 

 

Yはゆで卵やベーコンの炒め物などを作り、我々は市場で買ってきたパンとともにそれらを食べた。 

作ってもらっておきながらこんなことを言うのは難だが、食事は極めて粗末なものだったといって良い。食堂の食事もそんなにうまいものではなかった。そんなわけで常に我々は空腹感に苛まれて日々を過ごしていた。

 

(相部屋にてYを写したもの。部屋の雰囲気が伝わるだろう。それにしても部屋が汚い。本が多い。2000年)

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食堂の飯や我々の作る粗末な飯も問題だったが、それ以上に問題だったのは米が食えなかったことだ。

 

 

 

食事に米がでるというのは日本でこそ当たり前だがここは異国の地である。ロシア人は炊き立ての白米がなくともパンさえあれば平気な人々である。しかし私は二週間近く米が食えないという生活を通していかに我々が米に依存した生活をしているか、またいかに我々日本人にとって米のある食生活が不可欠なものかを実感したのだった。 

 

 

 

私とYは米を求めてオケアンスキー通りをさまよい歩いた。そしてとある商店街の続く細路地へと入っていったのだった。そこで我々が見つけたものは中華料理屋だった。ウラジオストックは中国国境から近い町である。そのため多くの華僑が滞在している。

 

 

この店もそうした華僑の店舗の一つであろう。かくして我々は久しぶりに米の飯にありつくことができたのだった。その後この店は私とYのサンクチュアリとなったことはいうまでもない。