2000年ウラジオストック 留学⑩

今更ながら、ウラジオストックでの生活パターンについて語ろうと思う。

まず、Yとの相部屋のベッドで目を覚ます。Yは既に授業に行っておりテーブルにはゆで卵、いためたベーコンなどが作ってくれてある。当時は当たり前に思っていたが、毎日のように飯を作ってくれていたYには頭が下がる。

 

(Yとの相部屋にてタバコをふかす筆者。このように窓枠にまたがってしばしば喫煙した。2000年撮影。)

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(Yとの相部屋にてベットに腰掛ける筆者。カメラマンはおそらくYであろう。部屋にはこのようなベッドが二つあった。筆者の向かいにYのベッドがあった。)

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Yの用意してくれた朝食をパンなどと平らげてから、二日酔いの体を引きずって授業に向かう。校舎は敷地内の別の建物で受けた。そして授業は常に遅刻だった。恐らく極東大学の先生方もしょーもない学生と思っていたことだろう。

 


午前の授業が終わると寮に戻り、三階の食堂でお昼を取った気がする。もしかしたら午後の授業が終わった後だったかもしれないが。

 


午前の授業が終わると、午後はエクスクルシヤと言って、ロシア人学生たちと市内見学に興じる。ロシア人学生たちは、大学が留学生の世話をするために日本語を学ぶ学生たちをその役に任じたものである。我々の世話係はイケメン青年オレーグ・ベリャーコフ君、ターニャさん、ラリーサさん、日本語が達者かつ物凄い美女だったオクサーナさんの四人だった。

 


彼らと毎日午後になるとウラジオストック市内の様々な場所を回った。ロシア正教の寺院、市内のスーパー、シベリア鉄道の駅、オレーグの家の別荘などなど・・・

 

ウラジオストック駅。シベリア鉄道の駅である。)

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ウラジオストックの様々な場所をめぐれたのは彼らロシア人学生らのおかげだったといえる。留学が終わってから、彼らとの交流は途絶えてしまったが、Yが一度だけオレーグにメールをしたことがある。オレーグは日本からボートや船を購入する会社で働いているという。ほかの女の子たちは分からない。