ウラジオストック 留学

2000年ウラジオストック 留学 14

楽しかったウラジオストック留学も九月上旬で終わりとなり、俺は帰国の船に乗った。一緒の船に乗ったのは、俺、Y、Aちゃん、Sちゃん、その他のメンバーであった。その他のメンバーが誰だったのか、記憶が曖昧だが確かほとんどのメンバーが乗っていた気がす…

2000年ウラジオストック 留学 13

我々は町で白人を見かけたとき、それがアメリカ人であるとかチェコ人であるとか、そういうことは特に考慮しないだろう。 なぜならば彼ら白人は皆同じ顔をしている、少なくとも我々アジア人にはイタリア人もドイツ人も同じ顔に見えるのだから。そして、何故だ…

2000年ウラジオストック 留学 12

留学中、僕は酒を飲む機会が多かった。特に女の子たちと仲良くなり、頻繁に彼女らの部屋に呼ばれたので浮かれて飲む量も増えてしまった。そしてYの寝た部屋に帰ってきては、トイレで吐いたりすることもしばしばだった。特に、女の子たちに振り向いてもらい…

2000年ウラジオストック 留学11

僕が留学で住んでいた下宿について説明しよう。 (僕が宿泊していた学生寮 2019年撮影) 上の写真だと写ってないが、画面外右側、建物に向かった右端に建物の入り口があった。入り口のドアを開けると階段になっており、そこを二階に上がってから建物の居住ス…

2000年ウラジオストック 留学⑩

今更ながら、ウラジオストックでの生活パターンについて語ろうと思う。 まず、Yとの相部屋のベッドで目を覚ます。Yは既に授業に行っておりテーブルにはゆで卵、いためたベーコンなどが作ってくれてある。当時は当たり前に思っていたが、毎日のように飯を作…

2000年ウラジオストック 留学⑨

ロシアの露天市場 僕は同じ大学から留学しにきたYと相部屋だったが、料理の大半は自炊をせねばならなかったため、また夜酒を飲み食いして楽しむため、定期的に食料の買い出しに出かけた。それら買い物の多くは露天市場でした。市場は活気があり、愛想の良い…

2000年ウラジオストック留学⑧

ウラジオストック の海水浴について。 滞在中、僕たち日本人留学生はロシア人学生たちに連れられて海に行ったことがある。 今となっては場所はどこだったのかわからないが、ウラジオストックの海水浴場だったことは確かだ。そう、ウラジオストックはロシアで…

2000年ウラジオストック留学⑦

食生活 食事は基本的に食堂で取ることができたが、土日などは休みだったし夜遅い時間は閉まっていたため必然的に自炊の必要があった。 まずいことに私もYも自炊には不慣れだった。Yはそれでも多少自炊経験があったものの私に至っては料理経験は皆無といっ…

2000年ウラジオストック留学⑥

ロシア財政危機の影響・市民生活の困窮 ロシアは貧富の差が激しい国である。もともとソビエト時代においては一部の特権階級をのぞいて貧富の差は無く、最低限の衣食住がすべての国民に保障された国だったのだが、ソ連崩壊後はそうした生活インフラのすべてが…

2000年ウラジオストック留学⑤

◆ウラジオストックの街について ウラジオストックのメインスポットといえば、中央広場を置いてほかには無いだろう。広場の中心にはロシア革命の英雄像がその堂々とした姿で聳えていた。 (写真は2019年に撮影したもの) その広場は、南側は港に面しており、…

2000年ウラジオストック留学④

◆ルームメイトYについて ◆学生寮と大学の敷地について ◆団地の子供達について 大学の寮では同じ大学のYと相部屋だった。 Yとはしばしば夕暮れに酒を飲みタバコをふかした。寮の近くにはキオスクがあり、そこで買ってきた『バルチック艦隊ビール』を飲み、…

2000年ウラジオストック留学③

我々早大生留学生は学生寮とも団地とも着かない建物の三階に居住した。そばには用途のわからない廃屋があり、私とYの部屋からよく見える位置にあった。 グーグルマップで見つけた僕らの当時住んでいた団地。写真の人が集まっている入り口から中に入るとライ…

2000年ウラジオストック留学②

私達は二泊三日の間アントニーナネジダーノワ号に揺られ、ついにウラジオストックの港に着いた。 港には日本からの留学生が来るということを聞いた極東大学の人たちが迎えに来ていた。 私、A嬢、それに2人の早大生は彼らの車に乗りウラジオストックの市街…

2000年ウラジオストック留学①

2000年の四月に都内の大学でロシア文学を専攻していた私は、その年の8月上旬から9月上旬までロシア連邦のウラジオストックに語学留学していた。 その留学について書いていた文章が出てきた。読み返してみて結構面白そうだったから一部内容をアップしてみる…