ビザンツ帝国のレオーン三世と当時のキリキア情勢

私事であるが中国人の世界史マニアと知り合いになり、時折wechatにて彼と日中両言語を交えて世界史談義をするようになった。

その中で彼がビザンツ帝国皇帝レオーン三世について熱く語っていたので調べてみた。以下その際に私が調べたことをまとめたものである。

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レオーン三世またはレオ三世と呼ばれるビザンツ皇帝は、そう、『ギリシャの火』でイスラム勢を追い払った皇帝といえばわかるだろう。ギリシャの火とはギリシャ・ローマ文明が作った中世のハイテク兵器であって、ウマイヤ朝の軍隊がビザンツ帝国コンスタンティノープルを包囲したときこれによって彼らを撃退したのである。そしてその時のビザンツの皇帝がレオーン三世であった。

 

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ギリシャの火に関しては以下参照

ギリシア火薬 - Wikipedia

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レオーン3世が活躍したヘラクレイオス王朝からイサウロス王朝時代は東ローマ帝国が地中海の覇権国家からギリシャアナトリアの地域国家へと転落していくプロセスである。この時代、アラブ勢力によりシリア、北アフリカが侵略される。

 

レオーンの出身地であるゲルマニケイア(現在のカフラマンマラシュ)はアナトリア、シリア境界地域にあり、その地域は東ローマとアラブの係争地域となっていく。

 

 

以下、レオーン3世出身地の調査を通して、ヘラクレイオス王朝からイサウロス王朝時期のアナトリア、シリア境界地域について考察する。

 

1.レオーン三世の青年期

Wikipedia日本語版によると、青年時代のレオ3世はコノンと名乗っており、ゲルマニケイア出身でユスティニアノス二世の植民政策でトラキア(今のブルガリアのあたり)に移住している。

 

この情報によると、コノンがトラキアに移住したのは690年代から700年代頃ということになる。

 

レオ3世のその後の活躍に関してはいくらでもネットに書かれているであろうから、我々はそこには注目せず、コノンがレオ3世となるまでをどのように過ごしたのかについて注目したい。

 

 

そしてそのために、コノンが生まれ育った7世紀、8世紀のアナトリア、シリア境界地域について調べ、そこからコノンがレオ3世となった背景を想像しようと思う。

 

 

2.当時のキリキアとゲルマニケイア

そこで、本論では当時のゲルマニケイア(現在のカフラマンマラシュ)周辺の情勢について述べる。

当時、シリアとアナトリアにおけるアラブとビザンツ境界線地域をアラビア語ではスグールthughurといった。al-thughūr (اَلـثُّـغُـوْر; sing. al-thagr, اَلـثَّـغْـر, "cleft, opening")

以下本論ではその地域をアラブ・ビザンツ  フロンティアゾーンと呼ぶ。

この地域はかなり特殊な地域であったらしく一見に値する。以下、wikipedia 英語版記事“Al-ʿAwāṣim”の内容を転記する。転記は一文ずつ転記し、その下に私の日本語による概要を加える。

 

Al-ʿAwāṣim (Arabic: العواصم, "the defences, fortifications"; sing. al-ʿāṣimah, اَلْـعَـاصِـمَـة, "protectress") was the Arabic term used to refer to the Muslim side of the frontier zone between the Byzantine Empire and the Umayyadand Abbasid Caliphates in Cilicia, northern Syria and Upper Mesopotamia.

アル=アワスィムはアラブ・ビザンツ  フロンティアゾーンのアラブ側の呼称である。それはキリキア、北メソポタミア、シリアにあった。

 

 

[2] It was established in the early 8th century, once the first wave of the Muslim conquests ebbed, and lasted until the mid-10th century, when it was overrun by the Byzantine advance. 

それは八世紀初めに成立し、10世紀まで存在した。

 

It comprised the forward marches, comprising a chain of fortified strongholds, known as al-thughūr (اَلـثُّـغُـوْر; sing. al-thagr, اَلـثَّـغْـر, "cleft, opening"), and the rear or inner regions of the frontier zone, which was known as al-ʿawāṣim proper. 

その前方は一連の要塞からなっており、al-thughurと呼ばれた。そして、アラブ  ・ビザンツ フロンティアゾーンの後背地や内陸部の地域はアル=アワスィムと呼ばれた。

 

On the Byzantine side, the Muslim marches were mirrored by the institution of the kleisourai districts and the akritai border guards.

ビザンツ側ではアワスィムやスグールに対して、クレイソーライκλεισούραとアクリタイἀκρίταιが設けられた。

 

 

In the Byzantine Empire, a kleisoura (Greek: κλεισούρα, "enclosure, defile") was a term traditionally applied to a fortified mountain pass and the military district protecting it.[1] By the late 7th century, it came to be applied to more extensive frontier districts, distinct from the larger themata, chiefly along the Empire's eastern border with the Caliphate along the line of the Taurus-Anti-Taurus mountains (in the West, only Strymon was in its early days termed a kleisoura).[1] 

https://en.wikipedia.org/wiki/Kleisoura_(Byzantine_district)

 

 

クレイソーラは要塞化された山道、またはそれを守るための軍区である。(wikipedia “Kleisoura”より抜粋)

 

 

The Akritai (Greek: ἀκρίται, singular: Akritēs, ἀκρίτης) is a term used in the Byzantine Empire in the 9th–11th centuries to denote the army units guarding the Empire's eastern border, facing the Muslim states of the Middle East. Their exploits, embellished, inspired the Byzantine "national epic" of Digenes Akritas and the cycle of the Acritic songs.

https://en.wikipedia.org/wiki/Akritai

 

アクリタイはビザンツとアラブの境界地域で国境を守る舞台のこと。彼らの活動はアクリタイの歌と言われる一連の叙事詩を生み出し、その中でも特に有名なものがDigenes Akrites (Greek: Διγενῆς Ἀκρίτης, pronounced [ðiʝeˈnis aˈkritis])と呼ばれる叙事詩である。

wikipedia “Akritai”より抜粋)

 

(地図を見るとAL-AWASIM や THUGHURといった文字が見られ、アラブ寄りの平野がアル・アワスィム、より北側の山間部がスグールであることが見て取れる。wikipedia 英語版記事“Al-ʿAwāṣim”)

 

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(以下、またwikipedia “Al-ʿAwāṣim”より)

Already from late 630s, after the rapid Muslim conquest of Syria, a wide zone, unclaimed by either Byzantines or Arabs and virtually deserted (known in Arabic as al-Ḍawāḥī (اَلـدَّوَاحِي, "of the Outer Lands") and in Greek as ta akra (τὰ ἄκρα, "the extremities") emerged between the two powers in Cilicia, along the southern approaches of the Taurus and Anti-Taurus mountain ranges, leaving the Anatolian plateau in Byzantine hands. 

アラブのシリア征服以降の630年代からビザンツ とアラブのどちらにも属さない、実質砂漠化した広大な地域がキリキア地方に現れた。この砂漠はアラビア語ではal-Ḍawāḥī (اَلـدَّوَاحِي, "外側の土地") 、ビザンツ のギリシャ語ではta akra (τὰ ἄκρα, "最果て") とよばれた。この地域はキリキア地方のそれもタウルス山脈やアンチタウルス山脈の南側に沿った地域に存在していた。アナトリアはまだビザンツ側に属していた。

 

 

Both Emperor Heraclius (r. 610–641) and the Caliph ʿUmar (r. 634–644) pursued a strategy of destruction within this zone, trying to transform it into an effective barrier between their realms.[2][4] 

ビザンツのヘラクリウス帝(610-641)もカリフ・ウマルもこの地域を破壊する政策を継続し、この地域を両国の緩衝地帯(effective barrier)にしようとしていた。

 

 

 

Nevertheless, the ultimate aim of the caliphs remained the outright conquest of Byzantium, as they had done with its provinces in Syria, Egypt and North Africa, and it was only the failure of the Second Arab Siege of Constantinople in 717–718 that forced a revision of this strategic objective: 

しかしカリフの最終目的はビザンツの征服であった。だが、第二次コンスタンティノープル包囲戦の失敗で、その政策は方向転換を強いられた。

 

 

although raids into Anatolia continued, the goal of conquest was abandoned, and the border between the two powers began to acquire more permanent features. For the next two centuries, border fortresses might change hands between Byzantines and Arabs, but the basic outline of the Arab–Byzantine border remained essentially unaltered.[5][6][7] 

アナトリア侵攻は続いたがビザンツ征服の最終目的は廃止された。そのことで、両国の境界線地域はより永続的なものとなった。

 

 

Thus the term al-thughūr, which initially meant "fissures, clefts" (cf. their Greek name ta Stomia, τὰ Στόμια, "the mouths/openings") and designated the actual borderlands, came to mean "boundaries", employed in phrases like Thughūr al-Islām (ثُـغُـوْر الْإِسْـلَام, "Boundary of Islam") or Thughūr al-Rūmīya (الـثُّـغُـوْر الـرُّوْمِـيَّـة, "Boundary of the Romans").[2][8][9]

 

このスグールal thughurという単語は「裂け目」という意味であり(ギリシャ語では「口」を指す τὰΣτόμια(ta stomia)という名前で呼ばれた)、実質的に国境となった。

 

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Awasim

 

 

3.以上を踏まえて

このように、コノンが生まれた頃のゲルマニケイア周辺はビザンツ とアラブの抗争により要塞が立ち並び、荒廃して砂漠の広がる地域だったようだ。

Wikipedia『レオーン3世』の記事における、トラキアへの移住がどういう流れで起きたのかは分からずじまいだったが、荒廃して砂漠化しまともに生活もできなさそうな場所なので(a wide zone, unclaimed by either Byzantines or Arabs and virtually deserted    ;WikipediaAl-ʿAwāṣim”より)、ユスティニアノス2世がビザンツ ・アラブ  フロンティアゾーンの住人をトラキアに移住させたか(ユスティニアノス2世はこの地域を破壊する政策を遂行したと記事にもある)、またはブルガール族に備えて屯田兵のようなことをさせたのかもしれない。

この辺りは、テマ制について詳しくないと多くは語れないのでこの辺りで話をおこうと思うが、とにかくユスティニアノス2世からレオーン3世の時代は東ローマが地中海の覇権国家からギリシャアナトリアの地域国家ビザンツに変わっていくプロセスであった、そして、この時代の政策も、レオーン3世の青年時代も、キリキア地方の混沌とした情勢にもそうした覇権国家から地方政権への凋落が現れていたということができるだろう。

コノンがレオーン3世となったのも、このような混沌とした時代情勢や生育環境のなかで揉まれてきたことは見落とすことができないであろう。

 

 

 

 

 

見逃してはならないのは、ゲルマニケイアがコノンが生まれる以前にアラブにより陥落されているということ。

 

 

Wikipedia kahraman marash

 

In 645, Germanicia was taken from the Byzantines by the Muslim Arabs, to whom the city was known as Marʿash (Arabic: مرعش [ˈmarʕaʃ], which is also the Syriac ܡܪܥܫ). Marash was an important Syriac Orthodox diocese

Kahramanmaraş - Wikipedia

 

645年にゲルマニケイアはアラブ軍に奪われ、マラシュと名前を改められた

 

恐らく彼が生まれた頃は、ゲルマニケイアもビザンツに落とされたり、アラブに落とされたりを繰り返している状態だったのではなかろうか。そうでなければゲルマニケイア陥落の40年後、685年生まれのコノンがユスティニアノス2世の政策でトラキアに移住したことの説明がつかない。

当時のゲルマニケイアはビザンツになったり、アラブになったりする地域であり、場合によってコノンもウマイヤ朝の臣民になっていた人生もあり得たのかもしれない。

 

出雲に関する考察

 

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まず、この記事はなんら目新しいことが書かれていないということを断言しておかねばならない。この記事は私がGoogleマップ島根県の地形を見て得た考察をまとめたものであり、なぜそんなことをしたかと言えば古代において出雲が大国だったその理由を自分なりに探るためのものであった。

今日こそ島根県と言えば寂れた地域であるがそんな地域がなぜ古代では大国だったのか不思議だったからである。

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そして、そうした研究は当然何百年の昔から当然行われてきたであろうし(なんと言っても歴史ある地域故に、前近代から膨大な先行研究が蓄積されているだろうことは論を待たない)、一介の素人である私の考察がそうした偉大なる先行研究を上回るような発見があろうなどとは到底考えることができないのである。

 


「では君はなぜそんなものを公のネットワークにアップするのか?」と問われるならば、もちろんそれは自身の考察したところを他者に共有したいという自己顕示欲以外の何者でもないということを断言しておこう。

 

 

 

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さて、出雲はかつて古代の大国であった。そこでその秘密を探らんと欲した私は、島根県の地形をグーグルマップにて調べてみた。

一見してわかることだが島根県って半島だったんですね。台形の幅広の半島で結構珍しい地形だ。そして、その半島内に大きな湖が二つある。

 


そしてこの二つの湖だが、川に貫かれていて海につながっているのだ。つまり、この宍道湖と中海は湖ではなくラグーン(潟)なのだ。

 

中国山地から斐伊川が流れ、宍道湖に注ぐ

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斐伊川宍道湖から中海、境港を通り日本海に注ぐ

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そして、この島根半島の南側、本州と繋がっている部分は険しい中国山地に塞がれている。つまり、半島の付け根は険しい山で塞がれ、残りの三方は海に囲まれ、安全保障上守りやすい土地であると言える。

 


さらにこの二つの湖だが、これが出雲の発展に重要な意味を持つのだ。前述の通りこの宍道湖と中海は斐伊川に貫かれて境港で海につながっている。これが何を意味するかというと、これは自分の推測ではあるのだが、他の地域よりも物流面で圧倒的に有利な条件となるであろうということである。

どういうことか?前近代社会には土木工事機器は存在せず、今日のような沖まで埋め立てた大型船が直付けして寄港できる港はあまりなかったらしい。

大型船は存在したが直接陸地に接岸せず、水深の深い場所に錨を下ろして停泊し、陸との行き来は小型の船を使いやり取りしていたらしい。小型の船に人やものを乗せ大型船との間を行き来したようである。

そして、このように大型船を停泊させるには外洋にひらけた海岸では船が流されてしまうであろうから、結果的に湾とか潟(ラグーン)のような外洋の波から守られた場所に港が出来ることが多かったようだ。実際港町を見るとそうした湾や潟やまたは半島の陰など波から守られている地形が多い。

 

 

 

 


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上の画像は有名な港町だがいずれも入り組んだ湾になってたり、目の前に島があって外洋の波から港が守られている地形が多いことが見て取れるだろう。

このように考えると、島根半島宍道湖と中海がどれほど前近代では良港であったかが分かるだろう。

さらに宍道湖と中海を貫く斐伊川周辺には平野と豊かな耕作地が広がる、つまり農業生産力が高い。前近代の主要産業は農業であろうから(工業などは存在していかっただろう)、農業生産力が高いということは経済力も高いということ。

 


つまり出雲国は、

 


①防衛上有利な地形(海と中国山地に守られている)

②物流面で有利(広大な潟が域内にあり良港である)

③経済力が高い(斐伊川周辺の農業生産力)

 


これらの要素により古代において大国だったのではないか?!このように私は推測した。何度も言うが、先行文献は一切調べていない。

 


 

なお、さらに詳しく調べたい方のためにウィキの出雲に関する記事のリンクを貼り付けておく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD

私と数学 (エッセイ)

以下は仙台市内の某文学サークルに私が提出したエッセイの課題であって、それを見やすく修正したものである。

 

以下本文◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

ー私と数学ー

 


数学は長らく苦手だった。なんといっても私は文系なので当然理数科目には苦手意識が長らくあった。高校時代も相当に苦労をしたが努力は空回りし、高3の頃にはすっかり数学アレルギーとなり果てていた。 

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そんな私だが、大学入学後も自己啓発に努め数学力は向上していき、現在では高校時代よりははるかに数学的思考ができるようになった。とはいえ、中学高校時代に数学力が今と同程度にあれば、もっと上の学校に行けたものを、、、と思われてならない。

 

 


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ところで数字の開祖といえばピタゴラスだ。三平方の定理は誰でも知っているし、数学のキーパーソンと言ってよかろう。

以下はWikipediaの概要である。古代ギリシャの数学者ピタゴラスは知識を求めて古代オリエント世界の各地を遍歴した。エジプトでは幾何学(図形と関数)を学んだしフェニキアで算術と比率、カルディア人(イラク人)から天文学を学んだという。

 

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        ◯◯◯

 


彼の修行時代を見て感じるところは、学問が旅とセットになっているということである。要は今と違って家にいながらスマホで情報が取れる社会じゃなかった。情報が欲しけりゃそこまで行かなきゃならなかったと言うことだ。スマホ以前だって学校や出版物で数学の知識はゲットできた。だが、古代には義務教育や出版業と言うインフラがなかった。

また情報が師匠からの口伝で得る場合が多く、師匠との関係ができてないと情報も入りづらかったようだ。対人関係と情報収集が密接につながっていたのだ。

 

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そうしてみると現代の情報インフラはピタゴラスの時代からしたら恐るべき進歩である。

今日はスマホがあり、ますます膨大な情報にアクセスできるようになっている。海外有名大学の授業が無料で見られるし、サピエンス全史のハラリがやっている講義すらコタツでみかんを剥きながら聴講することができるのである。これがインフラのない時代なら、ハラリに弟子入りしないとハラリの話は聞けなかったし、ハラリが話の合わないタイプで嫌われたら何年弟子をしても情報はもらえなかったろう。

 

ハラリの講義は一部無料で見れる

https://youtu.be/-xwhvGQvuC0


現代なら教科書でつまづいた箇所などもその場でググれば、20世紀の学生が見たら驚愕するほどの良質な解説や資料が山のように出てくる。先生や塾講師と関係を作らなくてもグーグル先生とYouTubeがなんでも教えてくれるのだ!こんな有難い時代はない!

 

こんなものまでロハで見れるのだ!

↓↓

https://youtu.be/mSbMoOLzoR0

 

https://youtu.be/k6JX0iYTGqY

 

 

 

恐らく私が令和の受験生であったならば高校時代に数学で躓くこともなかったのではないかと思うと、30年遅く生まれたことが残念に思われてならない。


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さて、そこで私はアニメで流行りの並行世界的な設定で、スマホが存在している架空の1990年代に自分が中高生をしている世界を想像してみた。

おお、平成元年築の実家がまだ新しい。親父は今の俺と同世代だな。母親が若い。弟たちもウザいが可愛いね。

通学電車でスマホを開く下校中の俺。サッカー部と野球部が幅をきかせて嫌な学校だったが、ツイッターでそのことを愚痴るとすぐに見ず知らずの人たちが励ましてくれる。歴史や外国語の趣味について、学校では語れる相手がいなかったが、snsですぐに趣味の仲間もできた。いいねぇ。スマホのある90年代サイコーだよ。

帰宅して夕食を終えた俺は勉強を始める。科目は苦手な数学だ。だが、分からないところで引っかかっても、Google先生が懇切丁寧に教えてくれるから大丈夫。きっとこの世界なら俺の偏差値も80くらいはいけるんじゃないか?

「あー!」

どうした、俺?

「こんな問題もわからないなんて!俺はどーしてこんなにダメなんだ!」

いや、まて、そこはそうやって自分を責めるところじゃないぞ、俺よ。

「いつもいつも、甘えて嫌なことから逃げているからこんな」

御託はいいから、分からない箇所を分析しろよ!

「数学ができないのも、部活で二年生の和田に舐められるのだって、きっと俺のこの甘えた心が」

関係ねえこと混同してんじゃねえよ!いいから早く分析しろよ!!

「あ、ラインに通知が」

ラインを開くと中学の俺はそのまま趣味のオープンチャットでやり取りしたり、音を小さくしてYouTubeを見たりモンストしたりし始めた。そしてついに就寝時間まで、教科書を開くことはなかった。なんということだ!!

 

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そうか、当時の俺は論理的に物事を考えられなかった。そんな奴にスマホを持たせたって、急激に学力が変わることはないのかもしれない。架空のスマホ90年代から現実に戻ると、道の駅の駐車場に泊めている私の車には夕陽がさしていた。

ロシアで人気の韓国ラーメン

ロシア旅行や留学でこのカップラーメンを見たことがある方はいらっしゃらないだろうか?

 

(2019年撮影)

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この製品は、ロシア文字が書かれているが韓国製の『ドシラック』と言うカップラーメンで、ロシア留学者やロシア旅行者などなら一度は目にしたことがあるはずである。

 


というか、大学でロシア語をやったり、ロシア留学したことがあるメンツの間では『あるある』なテーマなのだ。

 


要は、前回ウラジオストック留学記を書いていて、このラーメンについて思い出し記事にした次第である。

 


そもそもドシラックとは?

 

ウィキ『doshirak』

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Doshirak


以下、上記リンクの要約である。翻訳と要約は私がしたので細部の誤訳などは多めに見ていただきたい。

 

・・・・・以下要約・・・・・・・・


ドシラックは1986年以来韓国のパルドで作られてきたラーメンのブランドである。名前の意味は「ランチボックス」。90年代に発売されて以来、ロシアで最も有名なインスタントラーメンのブランドとなった。

パルドとは?『韓国ヤクルト』のことであり同社はソウル特別市瑞草區(ソチョ区)にある韓国企業。1969年にヤクルトとユン・ドクピョンが設立した合弁会社。パルドというのは同社が海外展開する時に使うブランド名とのこと。

 


韓国ヤクルト

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88

 

 

・・・・・・要約ここまで・・・・・・


ちなみに韓国ヤクルトは、あの韓国旅行でいつも私がお世話になるシッケ(식혜)の会社でもある。


https://en.wikipedia.org/wiki/Sikhye

 

 

ロシア語版ウィキペディアの『ドシラック』にさらに詳しい記事があった。


https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94%D0%BE%D1%88%D0%B8%D1%80%D0%B0%D0%BA

 

 

以下、ロシア語版『ドシラック』の概要である。私のロシア語も頼りないため、大幅にGoogle翻訳を参考の上、以下の概要を書いた。

「ドシラックはラトビアのみならずロシアや旧ソ連諸国で発売されているインスタント食品の商標である。名前は韓国語の도시락に由来しており、意味は「箱の中のお米(明日の)」。韓国ヤクルトの製品。

ロシアではドシラックはドシラック・コヤДоширак Кояと ドシラック・リャザンДоширак Рязаньで製造され、流通はドジラック・ルーシが行なっている。ロシアでは同社はカップラーメン業界では2014年を除いてトップであり続けている。」

 

要は韓国企業の製品だが、ロシアではカップラーメンの顔として非常にポピュラーに認知されているということだ。

新興国旧ソ連圏では韓国企業が強いというがまさにそうした実例を感じさせられる話だ。そりゃ、ロシア留学で頻繁に目にしたはずである。

私もこんな記事を書くだけに、留学時代はYとともにドシラックのお世話になったものだ。

 

さて、ロシアで人気の韓国製のドジラックだが、既に30年近くロシア市場に受け入れられたため、ロシアで独自の進化をしているようだ。


ドシラックのレシピ動画

https://youtu.be/KD-YROeq12s


見ているだけで調理意欲をそそるドシラックのレシピ動画だ。

 


ドシラックバーガーhttps://cookpad.com/ru/recipes/4134486-doshirak-burghier

日本にもお米のバーガーがあるが、なんとこれはドシラックの麺を使ったハンバーガーだ。ロシアにおける普及の程が感じられよう。

 

 


よく言われるのが中国発祥のラーメンが日本で独自の進化を遂げて、中国の本来のラーメンとは全然違うものになったと言う話だ。ロシアにおけるドシラックも、本来は韓国ラーメンだったのがロシア独自の進化が起きており、本来の韓国ラーメンとはまるで別物に変貌しつつあることが窺えた。

 

以上、ロシアにおける韓国ラーメン・ドシラックについての記事でした。

2000年ウラジオストック 留学 14

楽しかったウラジオストック留学も九月上旬で終わりとなり、俺は帰国の船に乗った。一緒の船に乗ったのは、俺、Y、Aちゃん、Sちゃん、その他のメンバーであった。その他のメンバーが誰だったのか、記憶が曖昧だが確かほとんどのメンバーが乗っていた気がする。

帰りの船は行きとはまた違う趣があった。仲間もでき、彼らとの間に精神的な結びつきもできていた。

 

(友人達と会食  2000年)

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(写真は2019年に撮影したものだが、イメージとして載せておく。こうしたクレープで魚介類を挟む料理はウラジオでは非常に多かった。)

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僕は友人らと一緒の部屋になりたかったのだが、部屋の割り振りは船員らが行った。彼らに教えられた部屋に行ってみて僕は驚いた。なぜか、僕はイギリス人の12歳の女の子と相部屋にされたのだ!!彼女は二十歳過ぎの東洋人と相部屋にされたことを明らかに困惑を持って受け止めていたし、俺だって高学年の女の子と相部屋などという変態匂い立つ行為はためらいを感ぜざるを得なかった!!

 

 

(2019年の画像だがイメージとして載せておく。典型的なウラジオのアパートである。アルバムを漁ったが、船の写真も港との写真もなかったのでイメージ画像を。)

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僕は彼女に対して場当たり的な挨拶をし、そそくさと部屋を後にしたように記憶している。幸い、しばらくしてから船を管理する人たちから「部屋を間違えた」といわれ、友人たちとの相部屋に移動させられた。「部屋を間違えた」で済む話しか!!??

 

富山県の伏木港に着いたとき、船外は大雨だった。僕と仲間たちは雨の中を走って駅へと向かった。たった一ヶ月のロシア滞在だったが、その影響は絶大だった。道行く人々のほとんどが日本人だったが、この見慣れた光景が実に奇妙に見えた。仲間たち以外はすべてロシア人という環境に慣れきってしまい、東洋人が大群で町内を闊歩しているという風景にこの上ない違和感を感じてしまったのだ。

 

伏木駅の写真

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(お分かりいただけるだろうか?伏木駅の裏に小矢部川河口があり、船が停泊しているのが。恐らく我々の船もこのような位置で、伏木駅の裏側に船から下されたように記憶している。)

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東京に戻るためにJRの駅で切符を買った。このときも何やら感慨深いものがあった。

基本的に日本語というのは仲間内だけで話す言葉であり、公共の場で使うのはロシア語だった。公共の場で日本語を使うというのがこの上なく不思議な感じがしたのだった。

こうして、仲間たちと富山から東京へと帰路について、2000年のウラジオストック 短期留学は終わった。

 

2000年ウラジオストック 留学 13

我々は町で白人を見かけたとき、それがアメリカ人であるとかチェコ人であるとか、そういうことは特に考慮しないだろう。

なぜならば彼ら白人は皆同じ顔をしている、少なくとも我々アジア人にはイタリア人もドイツ人も同じ顔に見えるのだから。そして、何故だか我々は白人とみるとみんな英語で話している、もしくはアメリカ人だと思う傾向に無いだろうか?

彼らにとってもそれは同じだ。彼らにとっては、日本人も韓国人も中国人も、場合によってはベトナム人やタイ人にいたるまで皆同じだ。ことにウラジオストックには中国人観光客と韓国人留学生が多かったことからしばしば中国人、韓国人に間違われたが、概ねロシア人たちは我々早稲田の留学生を中国人と呼んでいた。恐らく彼らにとって『中国人』とはアジア人全般を指し示す言葉だったのだろう。

 

 

(2019年に宿泊したゲストハウス。私以外の客はみんな韓国人だった。)

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(オケアンスカヤ通りの韓国料理店。あちらでも韓国料理は人気のようだ。)

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あるとき、私とK嬢が大学そばの売店でショッピングに興じているとき、ロシア人に絡まれたことが会ったが、彼は延々と『いいか韓国人、俺はなぁお前ら韓国人がなぁ・・・』云々、完璧に韓国人だと勘違いされていた。だが・・・向こうにいるうちにそれも小さなことに思えてきた。

 

(この建物はシベリア出兵の時日本の勢力が立てた朝鮮銀行の建物らしい。)

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確かに中国人や韓国人、ことに韓国人はまったく日本人と同じだった。違うのは言葉だけ。それは後日韓国旅行に行くことでその思いがますます強くなっていった。ロシア人たちに中国人、韓国人とともにアジア人として一括りに扱われることで、むしろ彼らに同朋意識すら覚えてしまった。そうだ、我々は漢字を共有し顔かたちが同じで共通の文化を持つアジア人なのだ、こうした思いが私の中で芽生えたのだった。もっとも両国は強烈な反日政策を展開している。だが彼らに言わせると日本が過去の謝罪と反省をしていないとのことなのだが、私は勉強不足なのでどちらの意見が正しいのか分からない。色々難しい問題があるのだ。しかし、ここではこの問題を扱うスペースもないし、色々ややこしいのでここではこの問題を扱わない。ただ、彼らと我々は思った以上に同じだということを最後に付け加える。

 

 

 

(韓国製の食品が並ぶ。韓国企業の旧ソ連圏での人気ぶりは結構なものだ。)

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(看板に日本語、韓国語、中国語が書かれている。三民族がいかにこの街を訪れるかを物語っている看板だ。)

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2000年ウラジオストック 留学 12

f:id:ksboon:20201114215024j:image留学中、僕は酒を飲む機会が多かった。特に女の子たちと仲良くなり、頻繁に彼女らの部屋に呼ばれたので浮かれて飲む量も増えてしまった。そしてYの寝た部屋に帰ってきては、トイレで吐いたりすることもしばしばだった。特に、女の子たちに振り向いてもらいたくて、まあ色々と恥ずかしい足掻き方をしては失笑を買うことがしばしばで、8月後半にもなると段々と退廃的な気分になっていった。くわえタバコで街を練り歩るなどしてウラジオストックの市街地を彷徨い歩くようになる。

 


そんなある日、僕は朦朧とした状態で海辺の露天が集まった場所を放浪していた。ロシアは当時不景気だったため、町は昼間から酒をあおる失業者の中年男性がちらほらといた。彼らは月曜の昼間から街中をビール瓶片手に友達と談笑しながら練り歩くのである。

 


僕も真似してバルチカビールを片手に海沿いの露天街を歩いた。屋台の食べ物などもつまみつつ、酒をあおって歩いた。屋台にはジュース、スナックなどのほかに小海老の揚げ物、ピロシキなどが安価で売っていた。気分を紛らわすつもりだったが、酒とツマミで僕はますます退廃的気分に浸りつつフラフラしながら街をさまよっていった。

 

(もはやどの辺りを歩いたのか記憶は朧げだが、参考までに2019年撮影のウラジオストック市街地写真をあげよう。当時私がほっつき歩いたのはこの辺りである。2020年追記)

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ふと気づくと、町外れの海沿いにいた。やけくそになった私はシャツのボタンを全部はずして服をはだけさせた(ちなみに、ボタンを全部はずしてシャツをはだけるというこのファッションは、ウラジオストックにおける夏の風物詩であり、多くの現地住民はそのようにしていたが、僕がこれをやると何故か道行く女性に嘲われるのだった)。

 


その姿勢で堤防の上でビールをあおって咆哮していると、なにやら遠くの方からぞろぞろとガラの悪い団体がこちらに向かってくる。身長が低いことから子供のようだったが、ニヤニヤした顔をして随分とガラの悪い雰囲気だった。

 


二十人はいるだろうか、その団体はこちらに向かってぞろぞろと近づいてくる。間違いなく彼らは金を持っていそうなアジア人である僕をカツアゲのターゲットにするつもりでこちらに向かってきているのだ。子供なのだが、どうやらチーマーのようだ。子供のチーマーだ。

 


僕は先ほどまでの倦怠感、退廃に浸っていたことも忘れ、そそくさとその場を逃げ去った。幸い彼らはそれ以上追ってくることはなかった。

 


今思えば彼らはストリートチルドレンが徒党を組んだものだったのではないかと思う。貧富の差が激しいロシアにはホームレスのみならず年端も行かない子供たちが路上生活をしている例が多い(2019年では、もはや市街地に浮浪者は見られなかった 2020年追記)。厳しい現実に晒された子供たちが徒党を組んで日々の糧を得ようとするということはありえる話である。はだしのゲンにも子供の浮浪者が出てきて、生活のために軽犯罪に手を染める描写が出てきたが、同じような子たちだったのではないか。

 

(全く関係ないが、上の方で酒とツマミの話が出てきたので、ウラジオストック における食べ物の写真をアップする。ウラジオストック 駅前にあるウズベク料理店で食べたシャウルマだ。2019年撮影)

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以下、2020年追記である。2019年再訪問した際は、こうした浮浪児や浮浪者は全く見られず、新しく綺麗な建物も増えてすっかり裕福な先進国のような街になっていた。この21世紀に入ってからの20年で恐るべき変化と発展がこの街で起きたということを肌で感じたものである。

今でこそ日本から二時間で行けるヨーロッパなどと言われているが、その背景には私が見聞したような大変な時代がついこの間まであったのだということを読者諸賢には堪能していただきたいものである。