2000年ウラジオストック 留学11

僕が留学で住んでいた下宿について説明しよう。

 

(僕が宿泊していた学生寮 2019年撮影)

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上の写真だと写ってないが、画面外右側、建物に向かった右端に建物の入り口があった。入り口のドアを開けると階段になっており、そこを二階に上がってから建物の居住スペースの廊下に出る。

廊下を今度は逆に建物に向かって左方向に進むと建物の中央あたりにさらに3階に向かう階段があった。

Yと僕の部屋は学生寮三階、階段を上がって左側の三つ目だったか二つ目の部屋だった。

 

(恐らく赤丸のあたりの部屋だったと記憶しているが、もはや記憶もおぼろげだ。  2019年撮影)

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室内に入ると、右手に流しとコンロ、左手にはトイレのドア、正面には白枠で観音開きの窓があった。ベッドが三つとテーブル、テレビがあり、部屋の中心はテーブルが置かれており、ベッドがテーブルを挟む形で置かれていた。ベッドの周りには下着や本の類が散らばる風だった。僕もYもベッド周りは同じ具合だったと記憶している。

 

(部屋の見取り図だ。だいたいこんな感だったと思う。)

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窓は日当たりの良い方向を向いており、窓枠に腰をかけてタバコをすうのは我々のささやかな娯楽だった。

 

(また、この段になっているところでもタバコをふかしたり酒を飲んだりしたものだった。  2019年撮影)

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トイレはユニットバスだったが、これがまた不潔この上ない代物だった。便がとびちっているだとか、汚物がのこっているとか、そういうわけではない。ただ、風呂桶の素材が湯垢水垢がこびりついて何かとても汚らしく感じさせるもので、風呂というよりは大きな便器に浸かっている様な感じだった。

 


幸い留学したのは夏だったのだが、水道事情もよろしいものではなく、シャワーから流れるお湯もチョロチョロとしたものだったし、いきなり水になったりものすごく熱湯になったりと安定していなかった。

2000年ウラジオストック 留学⑩

今更ながら、ウラジオストックでの生活パターンについて語ろうと思う。

まず、Yとの相部屋のベッドで目を覚ます。Yは既に授業に行っておりテーブルにはゆで卵、いためたベーコンなどが作ってくれてある。当時は当たり前に思っていたが、毎日のように飯を作ってくれていたYには頭が下がる。

 

(Yとの相部屋にてタバコをふかす筆者。このように窓枠にまたがってしばしば喫煙した。2000年撮影。)

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(Yとの相部屋にてベットに腰掛ける筆者。カメラマンはおそらくYであろう。部屋にはこのようなベッドが二つあった。筆者の向かいにYのベッドがあった。)

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Yの用意してくれた朝食をパンなどと平らげてから、二日酔いの体を引きずって授業に向かう。校舎は敷地内の別の建物で受けた。そして授業は常に遅刻だった。恐らく極東大学の先生方もしょーもない学生と思っていたことだろう。

 


午前の授業が終わると寮に戻り、三階の食堂でお昼を取った気がする。もしかしたら午後の授業が終わった後だったかもしれないが。

 


午前の授業が終わると、午後はエクスクルシヤと言って、ロシア人学生たちと市内見学に興じる。ロシア人学生たちは、大学が留学生の世話をするために日本語を学ぶ学生たちをその役に任じたものである。我々の世話係はイケメン青年オレーグ・ベリャーコフ君、ターニャさん、ラリーサさん、日本語が達者かつ物凄い美女だったオクサーナさんの四人だった。

 


彼らと毎日午後になるとウラジオストック市内の様々な場所を回った。ロシア正教の寺院、市内のスーパー、シベリア鉄道の駅、オレーグの家の別荘などなど・・・

 

ウラジオストック駅。シベリア鉄道の駅である。)

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ウラジオストックの様々な場所をめぐれたのは彼らロシア人学生らのおかげだったといえる。留学が終わってから、彼らとの交流は途絶えてしまったが、Yが一度だけオレーグにメールをしたことがある。オレーグは日本からボートや船を購入する会社で働いているという。ほかの女の子たちは分からない。

2000年ウラジオストック 留学⑨

ロシアの露天市場

 

僕は同じ大学から留学しにきたYと相部屋だったが、料理の大半は自炊をせねばならなかったため、また夜酒を飲み食いして楽しむため、定期的に食料の買い出しに出かけた。それら買い物の多くは露天市場でした。市場は活気があり、愛想の良いおばさんたちが様々な品々を売っている。野菜、肉、果物、ピクルス、パン、卵、冷凍食品などが日本では考えられないほど安価で売られているのだ。

 


私とYは食堂が休みの日に食べる食料を調達するためにしばしば市場へと向かった。我々がもっともよく買ったのは、パン、卵、それから冷凍食品のペリメニ(ロシア式水餃子)だった。

 

ペリメニ。これはレストランで撮影したもの。2019年)   

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それから忘れてはならないのは水である。水道水が飲めるのが日本ぐらいだという話は多くの人が聞いたことがあるだろう。

実際ロシアの水も、自殺志願者や病気志願者でなければ飲めたものではない代物だったので、我々はミネラルウォーターをしばしば買った。ミネラルウォーターは、市場ではなく大学そばのキオスクで買っていたと思う。水を買う上で問題なのは、間違って炭酸水を買ってしまうことだ。ロシアの店では普通にミネラルウォーターと一緒に炭酸水が売っている。砂糖も何も入っていない、炭酸が入っているだけのまずい水を、カクテルに使うでもなし、ジュースに入れるでもなし、ただ炭酸が入っているだけの無味の水を彼らはジュースでも飲むが如く愛飲するのである。これは不可解な習慣だったが、間違って我々が買ってしまったときは、まずくて飲めたものではなく、料理にも使えず始末に困ったものだった。

 

2019年追記◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今日、砂糖なしの炭酸水はコンビニで大人気である。かくいう私自身も毎日のように炭酸水を飲んでいる。この嗜好の変化はなぜ起きたのか、何故日本社会全体で炭酸水が歓迎されるようになったのか、気になり調べたところ以下のような記事を見つけた。参考までに共有する。

http://ent.smt.docomo.ne.jp/article/497868

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市場はいたるところにあったが、最もよく覚えているのは、大学から市の中心部に向かうオケアンスカヤ通りを南下してわき道に入ったところにあった市場、それから大学より路面電車で数十分ほど北上したところにあった第一市場(ピェールヴァヤ・リェーチカと呼ばれていた)である。規模で言えば前者よりも後者のほうが大きかったし売っている品物も種類が豊富だった。

興味深かったのは、アジア人の出稼ぎがしばしば市場を開いていたことだった。東南アジア系と思しき男性らが営む市場がよくあちこちで見られた。

印象的だったのはジュースが基本的にペットボトルで売られていたこと、それらは日本の缶ジュースぐらいの値段で売られていたことだった(ここら辺ちょっとうろおぼえ)。それから、スイカが驚くほど大量に売られていたことも印象的だった。いつもスイカがトラックに山積みになっていた。私は一個小さめのスイカを買ったが、それも日本では考えられぬほど安価だったし味も良かった。

 

冷凍食品のペリメニは我々にとって欠かせない日々の糧であった。まずパンやゆで卵に比べて味が良い、作るのは塩とともにゆでるだけで簡単ということから我々はペリメニをかなり重宝していた。

あるとき友人らが親しくなった韓国人らを私とYの部屋に招いてねぎらったことがあったが、このときも彼らにペリメニをご馳走した。

ペリメニを作るために私は水を熱し、茹で上がった鍋に冷凍されたペリメニを入れた。それから塩を加えようとした。塩はビニールのパックから直にちょっとずつパラパラと適量を加える風にして味付けをしていたのだが、このとき手元が狂い大量にドバっと入れてしまっため、途方もなく塩辛いペリメニができてしまい韓国人らを閉口させてしまったことを覚えている。

 

このようなこともあったのだが、私とYはなぜかいつも空腹にさいなまれていたので、市場で買ってきた卵やパンをかぶりつくのはこの上ない至福だった。市場での買い物は我々にとって重要な娯楽だったのだ。

 

 

2000年ウラジオストック留学⑧

ウラジオストック の海水浴について。

滞在中、僕たち日本人留学生はロシア人学生たちに連れられて海に行ったことがある。

今となっては場所はどこだったのかわからないが、ウラジオストックの海水浴場だったことは確かだ。そう、ウラジオストックはロシアであっても不凍港であり夏は暑いため泳ぐことができるのだ。

 

(意外!それは海水浴場!ロシアにもこう言う場所はあるのだ。2000年撮影。)

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その海水浴場は車で一時間二時間ほど飛ばした場所だったと記憶している。ドライバーのロシア人青年が日本では考えられないスピードで飛ばしていたので、結構距離は遠かったのかも知れない。

ちなみに、ウラジオストックの海水浴場をググってみたが街の近場にはあるようだが、車で一時間二時間の場所については記述がなかった。まあ、もうあれから20年もしてしまったので実は海水浴場と別の日に行ったドライブが頭の中で混同している可能性もある。

 

(当時の写真が出てきた。日本の海水浴場と大差ない風景。奥に陸が突き出している。地形から場所が特定できないものだろうか。)

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日本人留学生は男三人に女五人と女子率が高いので、海に行くと聞いたとき、女子の水着を撮影したくて使い捨てカメラを買いに行った。僕の携帯はこの頃カメラ機能がなかったし、たぶんカメラ付き携帯もそんなに普及していなかったように思う。

僕がカメラを買うところを見た女の子たちは、もちろん僕がいかがわしい目的でカメラを買ったこと、自分たちの水着を僕が撮影する気であることを見抜いていたので、ちょっと、やだ、何カメラなんて買ってるの?どうせみんなの水着を撮影するんでしょ?などなど責められたものだが、のらりくらりと言い訳を言ってはぐらかした。とはいえ、それらの写真は奥の方に行ってしまった。

 

 

何度か話したが、僕ら2000年度の夏の極東大学日本人短期留学生は女子が多く男子が少なかったので、僕でも結構女子に構ってもらえて楽しかったし、そばにいた別のロシア人男子の集団がちょっかい出したりしたのを覚えてる。もっとも、これもまた下らぬ余談である。

 


ちなみに、海水浴場とは言っても、当時は監視の人もいなかったし、沖に流されないためのネットもなかった。あれではおそらく毎年死者や流される人が出ていただろう。とはいえ、当時のロシアだったらそんなことも気にする社会じゃなかったし、地方当局もそんなことは取り合わなかったろう。2019年に久しぶりにウラジオストックを訪れたときは信じがたいほどに豊かになり、民度も社会も発展していた。だからもしかしたら今は海水浴場ももっとしっかりしているかもしれない。

とにかく、このようにロシアとは言ってもウラジオストック では夏に海水浴が出来るということは改めてここで紹介しておこう。

2000年ウラジオストック留学⑦

食生活

食事は基本的に食堂で取ることができたが、土日などは休みだったし夜遅い時間は閉まっていたため必然的に自炊の必要があった。 

 

 

  まずいことに私もYも自炊には不慣れだった。Yはそれでも多少自炊経験があったものの私に至っては料理経験は皆無といって良かった。

 

 

(yと筆者が生活していた、元極東大学の学生寮。2019年撮影)

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そのため私より比較的料理経験あるTが食事を作ることが主だった。 

 

 

Yはゆで卵やベーコンの炒め物などを作り、我々は市場で買ってきたパンとともにそれらを食べた。 

作ってもらっておきながらこんなことを言うのは難だが、食事は極めて粗末なものだったといって良い。食堂の食事もそんなにうまいものではなかった。そんなわけで常に我々は空腹感に苛まれて日々を過ごしていた。

 

(相部屋にてYを写したもの。部屋の雰囲気が伝わるだろう。それにしても部屋が汚い。本が多い。2000年)

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食堂の飯や我々の作る粗末な飯も問題だったが、それ以上に問題だったのは米が食えなかったことだ。

 

 

 

食事に米がでるというのは日本でこそ当たり前だがここは異国の地である。ロシア人は炊き立ての白米がなくともパンさえあれば平気な人々である。しかし私は二週間近く米が食えないという生活を通していかに我々が米に依存した生活をしているか、またいかに我々日本人にとって米のある食生活が不可欠なものかを実感したのだった。 

 

 

 

私とYは米を求めてオケアンスキー通りをさまよい歩いた。そしてとある商店街の続く細路地へと入っていったのだった。そこで我々が見つけたものは中華料理屋だった。ウラジオストックは中国国境から近い町である。そのため多くの華僑が滞在している。

 

 

この店もそうした華僑の店舗の一つであろう。かくして我々は久しぶりに米の飯にありつくことができたのだった。その後この店は私とYのサンクチュアリとなったことはいうまでもない。

 

2000年ウラジオストック留学⑥

ロシア財政危機の影響・市民生活の困窮

ロシアは貧富の差が激しい国である。もともとソビエト時代においては一部の特権階級をのぞいて貧富の差は無く、最低限の衣食住がすべての国民に保障された国だったのだが、ソ連崩壊後はそうした生活インフラのすべてが崩れ去った。ロシアは弱肉強食、経済のバトルロワイヤルが始まった。

 

ことに、98年のロシア通貨危機は壊滅的な打撃を与え、ロシア国民の数%がホームレスも同然の暮らしをする羽目になった。その一方でマフィアが台頭し、国や警察は機能せず、地方はマフィアが牛耳ることとなった。

 

そうしたことから人心は荒れ果て、血の気だった人々が町を歩く、私が留学した当時のロシアはそうしたところだった。最もその後プーチン政権が強権的に全国を統治し、資源ビジネスで好景気になっている現在(2007年ころ)では若干状況も変わっているのだろうが。

 

私が留学した当時のウラジオストックは、とにかくホームレスが多かった。特に驚かされ心を痛めたのは子供のホームレスや親子連れ、赤ん坊を抱いた女性のホームレスなどがあちこちにいたことだ。

 

平和ボケしている我々が見ると思わず手を差し伸べたくもなってしまうのだが、そうした現実にすっかり慣れてしまっているロシア人たちは無関心に彼らの前を通り過ぎていく。

 

ホームレスの多くは地下街の入り口、寺院周辺などに多くいた。中には負傷した退役軍人と思しき男性もおり、その手には指が無かった。

 

だが、そのご身の毛もよだつ事実がロシア人の友人から明かされた。彼らの多くはマフィアの管轄化に入っていたのだ。彼らは施しものの一部をショバ代としてマフィアに払い、最低限の食料などをマフィアから援助されているらしい。

 

更に恐ろしいことに、私が見た退役軍人と思しき男性は、彼の指はマフィアに切断されたものである可能性が高いということ

である。どういうことか?通行人の同情を誘うためにマフィアに依頼して指や手足を切断してもらうのである。事実私は街中で内臓のはみ出した男性ホームレスを見たが、彼の首から提げた『助けてください』とロシア語で書かれたプラカードの文字は印刷されたものだった。おそらく彼も自分の元締めであるマ

フィアに依頼して腹を割いてもらったのであろう。

 

経済格差と暴力によって日本とは比べ物にならないほど人権が抑圧されているのが私の見たウラジオストックの現状であった

 

 

 

 

2019年追加

上記のような社会情勢は1998年のロシア財政危機に起因する。参考までにそにウィキペディアの記事を引用する。

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ロシア財政危機(ロシアざいせいきき)または、ロシア金融危機(ロシアきんゆうきき)とは、ロシア財政が悪化したところへアジア通貨危機の余波も受けて発生した債務不履行(デフォルト)並びに、一連の経済危機を指す。

狭義には、1998817キリエンコ政府並びにロシア中央銀行の行った対外債務の90日間支払停止と、これに起因するルーブル下落、キャピタル・フライトなどの経済的危機を指す。

広義には、それ以前から各種の要因でロシアの財政が逼迫し、債務支払い停止を経て資本の流出、ルーブルの下落を見たロシア国内の経済混乱、並びに、金融不安に伴う株価下落、投資方針を量から質へ転換した資本の移動、ヘッジファンドの倒産など、世界経済が受けた影響を指す。

ウィキペディア

2000年ウラジオストック留学⑤

ウラジオストックの街について

 

ウラジオストックのメインスポットといえば、中央広場を置いてほかには無いだろう。広場の中心にはロシア革命の英雄像がその堂々とした姿で聳えていた。

 

(写真は2019年に撮影したもの)

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その広場は、南側は港に面しており、北側は市街地である。広場の北側を東西に伸びているのがスヴェトランスカヤ通りであり、スヴェトランスカヤ通りと交わって、広場から北へ北へと伸びているのがオケアンスカヤ通りである。

 

(オケアンスカヤ通りの坂を登るところ。2019年)

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商店が立ち並び、トロリーバスが走るそのオケアンスカヤ通りを北へと延々歩いていくと、我々の留学先である極東大学キャンパスに突き当たる。大学周辺にはロシア正教寺院、キオスクなどがあり人通りも少なくなかった。

 

(極東大学の敷地である施設。2019年)

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(上の建物の向かい側にロシア寺院が見える。2019年)
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