2000年ウラジオストック留学④

◆ルームメイトYについて

学生寮と大学の敷地について

団地の子供達について

 

大学の寮では同じ大学のYと相部屋だった。

 

Yとはしばしば夕暮れに酒を飲みタバコをふかした。寮の近くにはキオスクがあり、そこで買ってきた『バルチック艦隊ビール』を飲み、タバコ『ピョートル一世』をふかしては大学構内の丘の上で馬鹿話に興じ、ゲラゲラ笑ってすごしたものだった。


 

当時愛飲したロシアのたばこ『ピョートル一世』

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ptr

 

同じく愛飲したрусский стиль(ロシアン・スタイル)

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russkiy stil




 バルチカビール

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キャンパス内は広大なものであり、さまざまな建物、学生寮などがある。我々の居住した学生寮もキャンパス内のものだった。興味深いことはこの学生寮、学生以外の人たちにも間貸ししていた点である。大学関係者もいたらしいが、それとは全然関係ない民間人も居住していたようで、学生寮というよりは団地

といってもよさそうなものだった。

 

昼間は団地に住む子供たちが和気藹々として遊んでおり、私のルームメイトYは、この子供たちの間で人気者であり、その人気ぶりたるや不動の地位を築いていた。そのおかげもあり、我々早大生留学生は彼らとも交流を深めることができた。

 

ことに興味深いことは、Yがロシアに『電気あんま』を伝えたエピソードであろう。ある日我々の部屋に団地の子供たちが遊びに来たことがあったのだが、子供の扱いが苦手な私は彼らをよそに読書に専念していたのだが、その一方でYは子供たちと飛んだりはねたり押し合いへし合いしつつ遊戯に興じていた。

と、少年の一人が絶叫しだすではないか。何事かと思い見ればが少年の一人に電気あんまをかけている。日本の小学校でこそ見慣れた光景であるが、ロシアの少年たちにとってそれはカルチャーショック以外の何物でもなかったようだ。

『ねぇ、Y!これはいったい何なの?』

『これはね、エレクトリック・マッサージというんだよ』

『へー!すげー!エレクトリックマッサージだ!』

少年たちはさっそくの伝えた日本の神秘、電気あんまを友人同士でかけたりかけられたりして遊びだした。

 

後年、はロシアに日本の神秘を伝道した男としてロシアに広く名を知られるのではないかと私は思った(果たしてYによりロシアに電気アンマが伝わったか否か?!その是非は二十年経った現在も未確認である。なんと言ってもウラジオストックの人に会うこと自体が稀有なため確認ができない。ロシア語で「電気アンマ   ウラジオストック」などと検索することも検討して良いかもしれない     2019年9月追記)。

2000年ウラジオストック留学③

我々早大生留学生は学生寮とも団地とも着かない建物の三階に居住した。そばには用途のわからない廃屋があり、私とYの部屋からよく見える位置にあった。

 

 

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グーグルマップで見つけた僕らの当時住んでいた団地。写真の人が集まっている入り口から中に入るとライフルを持った門番がいた。今はどうなのだろうか。



恐ろしいのは寮の入り口に銃を構えた兵士が何人も門番をしていたことだろう。我々は寮に入る際、彼らに大学から発行された学生証を示して中に入るのだ。建物の端に螺旋階段があり、螺旋階段の入り口に一人、螺旋階段の途中にデスクがありそのデスクにまた一人兵士がいたのを覚えている。

 

螺旋階段から二階へあがると一旦二回の廊下へと出ねばならない。階段を通った先に別の階段があり、そこを三階まで上ると、丈夫そうな木の扉があり、怖そうなおばさんが門番をしている。彼女はジジョールナヤという下宿管理をする女性なのだ。

基本的に禁酒のこの学生寮で、そとからアルコール類を持ち込む私のような不逞学生を取り締まるのが彼女の仕事らしかった

 

 

 

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グーグルマップより。写真に写ってる部屋のどれかが僕の部屋だったとおもう。手前に写っている売店ではよく酒やつまみを買った。

 

ジジョールナヤに門を開けてもらうと、目の前には食堂があり左右に廊下が伸びている。右に行くとK嬢とA君の部屋があり、左に行くと私とTA嬢とS嬢の相部屋があった。

 

そう、驚くべきことにこの学生寮は男子寮と女子寮が分かれていなかったのである!まことにロシアとはルーズな国である。

 

この階には我々日本人のみならず、中国人、韓国人、などが居住しており、また上の階にもアジア人が居住しているらしかった。食事の時間にもなると、さまざまな国の留学生が三階の食堂に集まり、それはそれはにぎやかなことこの上なく、コスモポリタンな食堂だった。

 

興味深いのは食堂の箸が韓国朝鮮式の金属製の鉄箸だったことだ。おそらく韓国からの留学生が最も多かったのだろう。ちなみに私は朝鮮半島で金属の箸を使うということをはじめて知った。

 

さまざまな国の言語を趣味としてたしなむ私のこと、食堂で出会うアジア人らに中国語、韓国語、それから我々の共通語だったロシア語を駆使して話しかけ交流を深めることはやぶさかではなかった。

 

その中の一人、中国は東北地方から来たヤン・シェンロンという青年と親しくなった。当時はまだ今より北京語がたくみに話

せたので中国人と容易にコミュニケーションが取れたのだ。彼と私はしばしばお互いの部屋を行き来した。私も中国では発行禁止になっているポルノ雑誌を彼に譲るなどして友情を深めていった。東京都内で買ったプレイボーイを彼に見せたのだが、中国では水着グラビアすら禁止だったそうで、滅茶苦茶喜んでいたのを覚えている。

2000年ウラジオストック留学②

私達は二泊三日の間アントニーナネジダーノワ号に揺られ、ついにウラジオストックの港に着いた。

 

港には日本からの留学生が来るということを聞いた極東大学の人たちが迎えに来ていた。

 

私、A嬢、それに2人の早大生は彼らの車に乗りウラジオストックの市街地へと向かった。

 

私は始めての海外、十代のころからあこがれていたユーラシア大陸への第一歩を踏んだのだった。

 

なるほど、ウラジオストックといえば所詮はロシアの東端。中国の東隣であり北朝鮮からもすぐ近く。日本の天気予報にさえ顔を出す地でこそあれ、ヨーロッパや中央アジアまで地続きのユーラシアである。私が中学のころからあこがれていたユーラシア大陸の一部なのである。

 

それはそれは感慨深いものがあった。

 

極東大の学生の車に乗って市内に向かったのだが、市内の建物はレトロで、想像したとおりのロシアの風景だった。古びたレンガ造りの建物があり、汚い舗装道路などは私のイメージどおりのロシア像そのものであった。

 

 

 

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残念なことに当時は写真をほとんど撮影しなかったためここで載せることはできない。だが、技術の進歩は偉大である。グーグルマップやストリートビューにより僕が当時あるいたウラジオストックの市街地は手軽にケータイで見ることができる。以下はグーグルマップで見つけたウラジオストックの市街地、ボクがよく歩いた界隈である

 

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同上

 

やがて車は勾配のある、立派なホテル前の銀行で止まった。ここで日本円をロシアルーブルに両替せよという。ちなみに立派なホテルは韓国資本、ヒュンダイのホテルだ。

 

 

グーグルマップで見つけたヒュンダイホテルであろう建物。今はロッテホテルとなっているようだ。この外観は覚えている。

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両替を終えた我々は、そのまま大学の寮へと向かった。寮では我々より一足先に、この夏の極東大学短期留学に参加していた日本の学生(偶然にもみんな私と同じ早稲田の学生だった)と顔見せをした。

 

まず、私のルームメイトとなる、そしてこの短期留学が縁となり現在に至るまで長い付き合い(腐れ縁?)となるY。天然キャラで魅力的なK嬢。A嬢とルームメイトのS嬢。同じロシア文学専修のインテリ風なA君。以上の人たちと知り合うこととなった。

 

このように、楽しい仲間とのウラジオストック滞在がはじまったのだった。

2000年ウラジオストック留学①

2000年の四月に都内の大学でロシア文学を専攻していた私は、その年の8月上旬から9月上旬までロシア連邦ウラジオストックに語学留学していた。

その留学について書いていた文章が出てきた。読み返してみて結構面白そうだったから一部内容をアップしてみる。

 

シベリア鉄道ウラジオストック駅(2019年撮影)

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この文章は2007年に自身のmixiページにアップしたものである。

随所に若気の至り的見苦しい表現が見られる。

あまりに見苦しい箇所は修正を施した。

留学先はロシア沿海州ウラジオストックにある極東国立大学дольно восточный государственный университетと言った。

 

当時極東国立大学の一角だった建物。今は日露関係の博物館か何かになっているようだ。(2019年撮影)

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留学は通っていた大学が学生に斡旋したもので、大学を通して申し込んだ。

(現在この大学は極東連邦大学と名を改め、キャンパスの場所も郊外に移転しており、僕が通ったキャンパスはウラジオストック日本センターとなっているらしい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E9%80%A3%E9%82%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6

 

    2019年追記)

 

ウラジオストックの位置

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現地へは東京から富山県高岡市伏木港まで移動して、伏木から船で渡った。

 

 

極東国立大学では学生寮に住み、外国人向けのロシア語の授業を約1ヶ月受けた。

滞在の間、極東国立大学の日本語専攻の生徒たちが日本人学生の世話やガイドをしてくれて、時折自宅での会食などにも招いてくれた。

 

◆◆◆◆◆◆以下本文◆◆◆◆◆

2000.8月上旬某日

 

 出発の前日、新幹線で富山駅まで行く。せっかちな私は出船の前日に泊まる宿すら考えずに富山に身ひとつで行った。一ヶ月も海外滞在するのにもってた荷物は修学旅行バッグたった一つ!

 

 とりあえず夜富山に着いた。やることもないから野宿だ。駅の入り口にごろりとなってねっころがる。周りを見ると、リュックを背負ったやつらが同様に雑魚寝をしているではないか。

何これ?登山?富山なんかに山があったかな?しかし明らかに登山と思しき人々が大勢野宿している。これは今でも謎である。いったい彼らは何だったのだろうか。(恐らくリュックを背負った集団は富山県立山連峰や黒部を目指した人たちだったのではないかと推察する。  20198月追記)

 

 しかし考えても仕方がないから、ロータリーでバイクを乗り回すヤンキーを幾分恐れつつその日は富山駅前で野宿した(野宿の場所は、うる覚えだが後日富山駅を再び訪れた印象から、富山駅北口のロータリーだったのではと推察する。  20198月追記)。

 

富山駅でヤンキーに怯えながら一夜を明かしたあと、ロシア行きの船が出る港へと向かう。氷見線というのどかなローカル電

車で向かった。

 

 船の出る町は『伏木(ふしき)』という。その名のごとくフシギな町だった・・・失礼。悪く言えば、寂れた感じの町だったんだけど、その寂れ方が他ではちょっとお目につかない独特な味わいを出していて、この町だけでも旅行するにあたいする場所だった。なんつうか、70年代とか列島改造計画以前の地方都市の雰囲気がいまだに残っている感じだった。しかも、町のあちこちには、ロシアと交流しているだけあって、ロシア語の看板やロシア人が歩いている。ノスタルジックな町と、そこを闊歩するロシア人という奇妙な組み合わせ・・・映画にでも出てきそうだ。

 

 

富山県高岡市伏木港の位置

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伏木港

 

伏木駅  駅の裏に波止場があり、そこから船に乗ったように記憶している。(2020年追記)

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伏木駅周辺。駅のすぐ裏に船がつけられるようになっていることが見て取れる。(2020年追記)

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伏木駅を背にロータリーと街を望んだ図(2020年追記)

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 俺は出航よりもだいぶ早く着いてしまったので、メシにしようとした。だが、その町にはコンビニがなかった。

 

 ひまをつぶそうと立ち読みを試みた。書店らしい書店がなかった。

 

 八百屋に入って食べ物を買おうとした。店員が珍しがって『どちらからきたんでか?』と聞かれてしまう。

 

 あちこち歩いて結局駅前スーパーで弁当を買って食べた。

 

 

 

 出航のころになったので、やっとこさ港に向かう。地図に従って進むと、でっかいタンカーが船着場にある。船体にはロシア語でАНТОНИНА  НЕЖДАНОВАアントニー

・ネジダーノヴァ)と書いてある。俺が乗る予定の船だ。どうやらもう乗れるらしい。

 

 船着場には在日ロシア人らがトラックに積んだ品々を船員ら

に売っている。俺も何か買って食おうかとしたが、そのロシア人たちはなかなかガラが悪そうでおっかなかったから遠慮した

 

 船にあがった。さっきのロシア人とは打って変わって船員さんたちはえらく感じの良い人々だった。とくに女の子のメイドさん、俺がロシア語で話し掛けると、『あら、話せるの?』とニコッと笑顔を見せる(今思えばメイドなどではなく、女性の接客要員だった。 2020年8月追記)。あんまりそのロシア人が美人だったのと親しげにしてくれるので、俺は思わずのぼせてしまった

 

 船は出航前にもかかわらず、とにかく揺れる。甲板にでるとすごく気持ちいいが、手すりがえらく潮風でベトベトだぁ。

 

 さっきの親切な船長さんに割り当てられた部屋まで向かう、すると・・・・ドンッ!三人の男と相部屋!

 

日本人の兄ちゃん、ノルウェー人の漁師さん二人だった。あんちゃんは物静かな人であまり話とかしてくれるタイプじゃなかったし、ノルウェーの漁師さんらは英語を一応話せるが、訛りがひどくてよくいってることがわからない。前途多難な組み合わせである。

 

 数時間後、船が伏木を離れた。ウラジオストック港まで二泊三日の船旅である。

 

 

陸が遠くなる。甲板で夕日に照らされつつ、旅情を味わえた。

見渡す限り大海原とはよく言ったものだ。本当に回りは海しかなかった。

 

 私の乗った船はアントニーナ・ネジダーノワ号というのだが、この船はロシア商人たちも多く利用していた。商人とはいいながら実際はマフィアみたいな連中ばかりだった。客船のはずなのに、実際には甲板の多くの部分が大量の車によって足の踏み場がない状態だった。私はわずかな隙間や数少ない広々とした場で旅情を味わっていたのだが。なぜ、その様に大量に車があったのかといえば、そのロシア人商人たちが日本車を大量に中古で購入するのだ。安価で購入した日本車をロシアで高く売っているらしい。

 

 後日談だが、私がウラジオストックの街中を歩いていると、なんと奇妙なことだ!ロシアの街中を日本の保育園バスが走っているではないか!いっしょにいたロシア人の友人に尋ねると、なんとあんなんで、ウラジオストックの公営バスらしい。つうか、思いっきり『○×幼稚園』ってロゴが車体に書いてあったんだけどね。幼稚園バスもあのように公営バスに使ってもらい、さぞ『光栄』だったろう・・・・このように、北陸とロシア極東地方は奇妙な経済交流が行われているのだ。余談が過ぎた(司馬遼太郎の真似)。船内に戻るとしよう。

 

 船内はあの人の良い船長さんや美人のロシア人メイド、マフィアとも商人ともつかないロシア人たち、のほかに多くの日本人らもいた。一人はその後一緒に留学に参加したAさん、子連れの家族旅行などさまざまであった。狭い船内に、柄の悪いロシア人ばかりだったため、すぐに日本人同士親しくなる。元出版会社に勤めていた兄さんと親しくなった。聞けば俺が昔愛読していた月間ラナーズ(ジョギングの月刊誌)の社員さんだったとか。かかか、感激だ。

 

 そのほか、退職したおじさん、学生さんの四人で彼らの相部屋にいき(私の相部屋は微妙だったから)酒を飲んだり、お菓子を食べたりした。

 

 親子連れの人はまじめそうなお父さん、おくさん、五人の子供らがいた。えらく子沢山だった。何でも有給でロシアに行ってレンタカーで遊ぶ予定だとか。しかし、周囲の柄の悪いロシア人らを見ていると、あんなたちのわるい連中の本国で子連れ旅行など危ないも良いところだ、といった顔をしていた。

 

 NGOの子供旅行にもであった。子供ら20人程度と引率の大学生の男女だった。

 

 

上でも述べたように、船内のロシア人たちは若干柄の悪そうな人たちが多かったし、半分マフィアのような人たちも少なくなかった。

しかし、20人あまりの小学生らは、ロシア人商人たちの前で無邪気に飛んだりはねたりして騒ぎまくっていたのである!

無論、引率の大学生たちはそのロシア人商人たちがヤバい人たちだと察しては居た。そのことを何とか子供たちに伝えようとしているのだが、無邪気で怖いもの知らずの子供らにはそのような戒めはどこ吹く風だった様だ。確か普通に子供たちはマフィア風ロシア人にじゃれついたりして、引率の大学生たちがヒヤヒヤしていたのを覚えている

 

この子供達はウラジオストックについたあと、シベリア鉄道に乗って、モンゴルに向かうとい言っていた・・・・はたしてあのような道行が無事成功するのだろうか。四年経った今でも(草稿当時は2004年だった)心配であるが、ロシアやモンゴルで日本人の子供たちがさらわれたとか、殺害されたとかいうニュースは一向に聞かないので、恐らくあんな騒がしい子供たちでも無事行って帰ってこれたのだろう。

 

 

 

 さて、冒頭でも述べたとおり海の旅はロマンチックである。大海原の広々とした感じは当然ながら言葉で言い表すことはできないだろう。アナログ写真でもあればスキャンして公開しよう、と思うのだが、残念ながらカメラを購入したのがロシア滞在中に女の子たちと海に行く前日(無論彼女らの水着姿を納めるために)だったため、私の感動を読者たちに伝えることはできない。

 

 日本海は深いことで有名だが、実際その水は真っ青で真っ暗くて、その色から海の深さが実感された。この真っ暗い水の先に黄泉の国でもありそうで、恐ろしかった。余談だが、私がアントニーナ号で向かっていたウラジオストックはかつて渤海王国の版図だったし、そのもっと前は高句麗(学校の古代史で習ったはずである)の領土。古代には朝鮮族と和国との交易のためにこの暗くて深い海を筏やカヌーでわたったはずだが、現代の巨大客船で渡るだけでも恐ろしいのに、筏やカヌーで行き来した古代人らの肝っ玉にもびっくりだ(古代人が本当にあんな潮の荒い海をカヌーや筏で渡ったのか、今となっては疑問だ。日本海の潮はかなり荒くて、今でも覚えているが大雨の日の川みたいな流れがあった。実際は大型の遣唐使船みたいな船で渡ったんではないかと今は思っている。それでも相当危険な旅だったんだろうけど。  20198月追記)。

 

 大海原では面白いものに遭遇した。北朝鮮と思しき陸を遠くに望んだり、鯨と遭遇したりもした。前者は航海2日目だったろうか・・・晴れた海原の遥か先に明らかに陸地と思しきものが見えた。時間的にロシアにしては早すぎるし、かといって韓国にしては北過ぎた。そうしたことから、北朝鮮だと結論付けていたのだが、未だにあれはどこだったのかわからない。

 

 後者は私が船室で例の道行き仲間らと酒を交わしていたころに遭遇した。例の子供らは甲板で盛んに遊んでいたのだが、彼らが『鯨だ!鯨だ!』と騒ぎ出したのだ。鯨を見るなどまたとない好機と思い甲板に飛び出したが、残念ながら鯨は見れなかった。じゃあ遭遇してないじゃん、と突っ込まれそうだが、鯨とニアミスしたというだけでも私にとっては記念するに値する事柄なのである。

 

 

 このようにして三日間の船旅を過ごした後、ついに初めてユーラシア大陸に足を踏み入たのだった。ここで探した1ヶ月は留学にしては短すぎるが僕にとっては忘れられないものとなるのである。

ツイート埋め込み練習



魯迅の故郷の冒頭を少し訳してみた

故乡
我冒了严寒,回到相隔二千余里,别了二十余年的故乡去。
故郷
僕は厳寒を厭わず、相隔てること二千余里、離れること二十余年の故郷に帰る。


时候既然是深冬,渐近故乡时,天气又阴晦了,冷风吹进船舱中,呜呜的?,从蓬隙向外一望,苍黄的天底下,远近横着几个萧索的荒村,没有一些活气。我的心禁不住悲凉起来了。
時しも真冬であったので、故郷に近づくにつれ、天気はまたどんよりとして、冷たい風は船室に吹き込み、ビュービューと響き、隙間から外を望めば、灰色がかった黄色い空の下、あちこちに活気のない寂れた村がいくつか横たわっており、少しも活気がない。
阴晦yin1hui4
苍黄cang1huang2
冷leng3
萧索xiao1suo2 寂れた
船舱chuan2cang1 船室

ドストエフスキー『キリストのヨルカに召された少年』『百姓マレイ』の感想 【書きかけ】

19世紀ロシアの風俗史料としての作家の日記


以下は読書会で読んだ、ドストエフスキーのエッセイに関する短編です。『作家の日記』というエッセイ集に出てくる『キリストのヨルカに召された少年』という短編です。
筋書きはシンプルで、寒いヨルカという祭りの夜に貧しい少年が街で凍死して、異世界でキリストのヨルカの祝いに召されるというだけの話です。ドストエフスキーが「パッと思いついてしまったが、こんなことが現実に起きている気がしてならない!!(作家の発言を概要したものです)」と断って書いた短編です。

以下本文========================

先日は読書会で作家の日記の三つの短編を読みました。ところで作家の日記は何かと人気がない。それは冗長な内容だったりドストエフスキー特有のあのクドクドとした言い回しが続く、または長編と違って推敲の浅い短文が出てきたりして長編に親しんだ読者にすると物足りなかったり退屈に思える為でしょう。
ところで自分は歴史好きですが、歴史好きの目線からするとこの作品は19世紀ロシアや欧米の風俗を知る上で大変重要な史料であり、そこから見出されることはいずれも驚くべきものです。この文章では歴史資料として、またエッセイとして作家の日記が如何にエキサイティングなものであるかを述べます。要は先日の読書会の感想を改めて書く、というだけのものです。
ちなみに、論文や文章の類はブランクがあるため、書き方などに色々誤りなどが見られるはずですが、その点はご笑覧いただくかご指摘を頂戴できたらと思います。

『キリストのヨルカに召された少年』で初めに目に付いたのが、少年が目を覚ました地下室についてです。

「この少年はじめじめした冷たい地下室で、朝、目を覚ました」(p.180)

ここで示したページは読書会で使った資料のもので、以下でページ数を示した場合、同様のものです。この地下室というものが、よくドストエフスキーの作品に出てきますが、どんなものなのか自分にはいまいちピンとと来ません。まず19世紀に電球は存在してないか、していても庶民に普及はしていないはずなので(ウィキペディアエジソンの記事によると1879年発明となっている)、我々が見慣れた電気で照らされた地下の階ではないはずです。
そこで「19c underground room slum」などのキーワードでGoogle検索をかけて、画像検索を見ると天井に近い部分だけ明かり窓がある地下倉庫みたいなのがでてきます。「朝、目を覚ました」とあるので日が入るような、恐らくこの様な半地下式の倉庫みたいなとこなのでしょうか。他の作品でも地下室の手記とかあるので、貧乏な人がよく暮らしている賃貸でこういうタイプがあったのかもしれません(ちなみにスラムのことをロシア語ではТрущобы またはбидонвилиと言うそうです)。

また、ウィキペディアで『地下室』について調べてみました。以下引用になります。引用した記事のバージョンは「 2018年1月20日 (土) 02:13 」です。


「また、地上階では果たせない地下ならではの役割もある。暖かい空気は上へ昇るという性質から、地下室の内部は地上よりも温度や湿度が低い。」
「ただし、木造家屋・壁が薄い場合・新築RC建築物・地下水の存在などの条件下では湿度が高くなり、完成から1年程度は様子を見ながら使用する。特に地下水の多い都市や川沿いの土地の場合、地下室は地下水の浸透による壁面のひび割れなどの恐れがある」



要は地下水などの関係で湿度が高く、地上よりも低い位置にあるため、寒い場所のようです。穴蔵みたいな感じなのかも知れません。ペテルブルクはネヴァ川河口の湿地帯なので伏流水は多いでしょうから地下室はさぞかしジメジメしたことでしょう。おまけにそこは屋内なのに息が白くなり、病気の母親が板の上で薄い布団で寝ていて、他の貧困層の人たちと雑居している様子が伺えます。

「息が白い蒸気になって吐き出される。」p181
「朝から幾度も寝板のそばへ近寄って見た。そこには煎餅のように薄い敷物を敷き、枕の代わりに何かの包みを頭にあてがって、病気の母親が横になっている。」同
「なにしろ祭日のことなので、間借人たちもちりぢりばらばらになってしまい、たった一人残ったバタ屋も、祭日の来るのを待たないで、へべれけに酔っ払ってしまい、もうまる一昼夜というもの、死んだように寝込んでいる」同
「部屋の向こうの隅では、八十からなる老婆がリューマチで唸っている。これはかつてどこかで子守りに雇われていたのだけれど、今では一人淋しく死んでいきながら、唸り声を立てたり、ため息をついたりして、少年にぶつぶつ、小言ばかりいっていた。」同


冬のロシアで暖房もない穴蔵の底で、ベットもなく板の上で病人が寝ていて、他にも酔いつぶれた個人経営の男性から孤独死を待つ老婆まで一緒に雑魚寝で暮らしている、普通の状況ではないわけです。
いわゆるドヤ街みたいな場所なのでしょうが、比較的イメージしやすい例として、自然災害の避難所があげられると思います。
避難所も、複数の家族が同じスペースに雑魚寝していますが、プライベートがない、冬に寒くて夏に暑い過酷な環境です。避難所を体育館からもっと小さいスペースに移したような、そんな雰囲気なのではないでしょうか。
アメリカの例ですが検索していて出てきた19世紀の雑居部屋の画像を貼ります。参考になればと思います。




この親子がこんなところで暮らしているのも、どうも生活の安定を求めて都会に出てきたためのようです。


「よその町からやってきたところが、急に病みついたものに相違ない。」p181

農奴解放の関係で19世紀の60年代70年代は貧困層が都会に溢れて大混乱したと聞きますが、この親子もそうした例なのでしょう。貧困の罠、という言葉を聞いたことがありますが、貧困に陥ると状況を改善しようともがけばもがくほど転落してしまうと聞きます。親子の描写からはそうした言葉を連想させます。
こういう例は今日のネットカフェ難民をも彷彿とさせます。雑魚寝でこそなく、冷暖房もあり、パーティションで区切られていますが、当時の貧困層の雰囲気としては近いのかもしれません。
ちなみに、調べている途中でロシア語でかかれた19世紀の貧困層の住宅に関する記事を見つけました。参考までにここにリンクを載せます。そのうち、機会と余力があったら訳して投稿したいものです。
https://arzamas.academy/materials/591


男の子が外に出ることで町の描写になりますが、ここも当時の都会や繁華街の雰囲気がよく伝わります。


「ほろほろした雪を通して、舗石にあたる蹄鉄の音がかつかつと響き、人々はお互いに無遠慮に突き当たっている」


この時代、車道は石で舗装されていたことはなんとなく知ってましたが、馬車が走るところ、つまり車道で使うのは現代人としては意外に感じるのではないでしょうか。自分は特に、蹄鉄の音がカツカツ鳴る辺りに、今日とは全く違う風俗を感じました。昔の風俗というとまずは視覚でイメージしますが、聴覚的にも相違があったのですね。あと文中にはかかれませんが、19世紀の街だと馬糞や石炭の匂いもかなりしたと思います。
ちなみに、検索で19世紀ロシアの石畳の画像をここに貼ります。




また、歩きながら人にガツガツぶつかるなんてことは我々はやることはないと思います。自分が海外で日本との違いを強く感じるのが、すれ違いざまの対応です。都会などの人混みで体が当たりそうになったり、手などが他の人をかすったりした場合、普通現代の日本人は「すみません」と謝罪したり、会釈で謝罪の意を伝えたりするものです。ところがアジアの国などに行くと、それが全くない。ましてやこの時代のロシア人は、「無遠慮に突き当たって」とあるのでかなり異様な光景です。実際20年ほど前に自分がウラジオストクに行った時は、ぶつかりこそしませんでしたが、やはりすれ違いざまの会釈などは全くなく、変に思ったものです。

ガラス窓の向こうで金持ちがヨルカ祝うとこ
「少年はそっと忍び寄り、不意に扉を開けて中へ入った。その時の騒ぎ、みんな手を振り回しながら、かれをどなりつけた。一人の奥さんが大急ぎでそばへ寄って、彼の手に一コペイカ銅貨を握らせると、自分で入り口の戸を開けて、外へ追い出した。」


なんだって貧しい身なりの子供にこの人たちは怒鳴りつけたりするのでしょうか?そんなこと起こり得るのでしょうか?
20年ほど前に自分はウラジオストクに短期留学したことがあります。この時期はロシア財政破綻の直後で、町には浮浪児やホームレスが溢れており、繁華街に行くと子供や赤ん坊を連れた女性の物乞いをよく見かけました。そして、子供の物乞いに絡まれたりした優しそうな青年が怒鳴って追い払ったのを見たことがあります。暮らしが貧しいと浮浪児に施しをあげる経済的余裕もなくなり、優しそうな人でも仕方なく追い払ったりするのだろうと思ったものです。引用の少年を怒鳴りつけた人たちや銅銭を渡した奥さんも同じような心境だったのでしょう。
私ごとですが敗戦直後の都内に自分の祖母が記者で行った時の事ですが、当時中学生の祖母は都内で浮浪児たちに食べ物を請われたそうです。しかし彼女もあげられるものがなく何もしてやれなかったと言います。社会が貧しいと困ってる子供を助けることも我々が思う以上に困難だと言うことなのでしょう。
読書会でフランダースの犬に言及した人たちがいましたが、その作品に限らず19世紀の作品は子供の貧困が出てくるものが少なくないように思えます。マッチ売りの少女などは良い例ではないでしょうか。この手の話はそうした子供の貧困を見て見ぬ振りして生きていた19世紀人の良心の呵責が現れてるのかも知れません。
話の後半、少年がキリストのヨルカの祝いに招かれた場面で、非業の死を遂げた子供たちの例をドストエフスキーが挙げます。


「この男の子や女の子たちは、みんな自分と同じような身の上で、ペテルブルクの役人の家の戸口にあたる階段の上に棄てられたまま、籠の中で凍え死んだものもあれば、養育院でフィンランド女の乳房に圧されて窒息したのもあり、自分の母親のしなびた乳のかたわらで死んだものもいるし」p.184



これらの例はずいぶん具体的に挙げてあることから、実際に新聞や雑誌で作家が読んだ記事から拾ったものなのでしょう。頻繁に町で浮浪児を見かけ、新聞などにも上に挙げたような酷い話が三面記事などに出ていて、そうした話に心を痛めている時に、作家の脳裏にこのような短編が閃いたと言うことかも知れません。
以上、『キリストのヨルカに召された少年』から読み取れる19世紀ペテルブルクの生活は以下のものが挙げられます。
1、貧困層が雑居する地下式の賃貸があった。冬は寒く、地下水の位置によっては湿気がひどった。
2、経済的混乱により地方から出てきた暮らしに困った人たちが多くいて、劣悪な暮らしをしていた。
3、繁華街は馬車が通る車道が石畳で舗装され、蹄鉄の音が響いた。
4、交通マナーが極端に悪く、路上のすれ違い時にぶつかり合いながら歩いていた。
5、幼い子供であろうと人々は浮浪者に冷たく対応した。
6、悲惨な死に方をする児童が少なくなく、恐らく新聞や雑誌にそうした事件が載る事もしばしばだった。

あまり楽しい気持ちにさせる例ではないですが、このように生活描写を調べると作家の生きていた時代の雰囲気がよりリアルに感じられるのではないでしょうか。