ドストエフスキー『キリストのヨルカに召された少年』『百姓マレイ』の感想 【書きかけ】

19世紀ロシアの風俗史料としての作家の日記


以下は読書会で読んだ、ドストエフスキーのエッセイに関する短編です。『作家の日記』というエッセイ集に出てくる『キリストのヨルカに召された少年』という短編です。
筋書きはシンプルで、寒いヨルカという祭りの夜に貧しい少年が街で凍死して、異世界でキリストのヨルカの祝いに召されるというだけの話です。ドストエフスキーが「パッと思いついてしまったが、こんなことが現実に起きている気がしてならない!!(作家の発言を概要したものです)」と断って書いた短編です。

以下本文========================

先日は読書会で作家の日記の三つの短編を読みました。ところで作家の日記は何かと人気がない。それは冗長な内容だったりドストエフスキー特有のあのクドクドとした言い回しが続く、または長編と違って推敲の浅い短文が出てきたりして長編に親しんだ読者にすると物足りなかったり退屈に思える為でしょう。
ところで自分は歴史好きですが、歴史好きの目線からするとこの作品は19世紀ロシアや欧米の風俗を知る上で大変重要な史料であり、そこから見出されることはいずれも驚くべきものです。この文章では歴史資料として、またエッセイとして作家の日記が如何にエキサイティングなものであるかを述べます。要は先日の読書会の感想を改めて書く、というだけのものです。
ちなみに、論文や文章の類はブランクがあるため、書き方などに色々誤りなどが見られるはずですが、その点はご笑覧いただくかご指摘を頂戴できたらと思います。

『キリストのヨルカに召された少年』で初めに目に付いたのが、少年が目を覚ました地下室についてです。

「この少年はじめじめした冷たい地下室で、朝、目を覚ました」(p.180)

ここで示したページは読書会で使った資料のもので、以下でページ数を示した場合、同様のものです。この地下室というものが、よくドストエフスキーの作品に出てきますが、どんなものなのか自分にはいまいちピンとと来ません。まず19世紀に電球は存在してないか、していても庶民に普及はしていないはずなので(ウィキペディアエジソンの記事によると1879年発明となっている)、我々が見慣れた電気で照らされた地下の階ではないはずです。
そこで「19c underground room slum」などのキーワードでGoogle検索をかけて、画像検索を見ると天井に近い部分だけ明かり窓がある地下倉庫みたいなのがでてきます。「朝、目を覚ました」とあるので日が入るような、恐らくこの様な半地下式の倉庫みたいなとこなのでしょうか。他の作品でも地下室の手記とかあるので、貧乏な人がよく暮らしている賃貸でこういうタイプがあったのかもしれません(ちなみにスラムのことをロシア語ではТрущобы またはбидонвилиと言うそうです)。

また、ウィキペディアで『地下室』について調べてみました。以下引用になります。引用した記事のバージョンは「 2018年1月20日 (土) 02:13 」です。


「また、地上階では果たせない地下ならではの役割もある。暖かい空気は上へ昇るという性質から、地下室の内部は地上よりも温度や湿度が低い。」
「ただし、木造家屋・壁が薄い場合・新築RC建築物・地下水の存在などの条件下では湿度が高くなり、完成から1年程度は様子を見ながら使用する。特に地下水の多い都市や川沿いの土地の場合、地下室は地下水の浸透による壁面のひび割れなどの恐れがある」



要は地下水などの関係で湿度が高く、地上よりも低い位置にあるため、寒い場所のようです。穴蔵みたいな感じなのかも知れません。ペテルブルクはネヴァ川河口の湿地帯なので伏流水は多いでしょうから地下室はさぞかしジメジメしたことでしょう。おまけにそこは屋内なのに息が白くなり、病気の母親が板の上で薄い布団で寝ていて、他の貧困層の人たちと雑居している様子が伺えます。

「息が白い蒸気になって吐き出される。」p181
「朝から幾度も寝板のそばへ近寄って見た。そこには煎餅のように薄い敷物を敷き、枕の代わりに何かの包みを頭にあてがって、病気の母親が横になっている。」同
「なにしろ祭日のことなので、間借人たちもちりぢりばらばらになってしまい、たった一人残ったバタ屋も、祭日の来るのを待たないで、へべれけに酔っ払ってしまい、もうまる一昼夜というもの、死んだように寝込んでいる」同
「部屋の向こうの隅では、八十からなる老婆がリューマチで唸っている。これはかつてどこかで子守りに雇われていたのだけれど、今では一人淋しく死んでいきながら、唸り声を立てたり、ため息をついたりして、少年にぶつぶつ、小言ばかりいっていた。」同


冬のロシアで暖房もない穴蔵の底で、ベットもなく板の上で病人が寝ていて、他にも酔いつぶれた個人経営の男性から孤独死を待つ老婆まで一緒に雑魚寝で暮らしている、普通の状況ではないわけです。
いわゆるドヤ街みたいな場所なのでしょうが、比較的イメージしやすい例として、自然災害の避難所があげられると思います。
避難所も、複数の家族が同じスペースに雑魚寝していますが、プライベートがない、冬に寒くて夏に暑い過酷な環境です。避難所を体育館からもっと小さいスペースに移したような、そんな雰囲気なのではないでしょうか。
アメリカの例ですが検索していて出てきた19世紀の雑居部屋の画像を貼ります。参考になればと思います。




この親子がこんなところで暮らしているのも、どうも生活の安定を求めて都会に出てきたためのようです。


「よその町からやってきたところが、急に病みついたものに相違ない。」p181

農奴解放の関係で19世紀の60年代70年代は貧困層が都会に溢れて大混乱したと聞きますが、この親子もそうした例なのでしょう。貧困の罠、という言葉を聞いたことがありますが、貧困に陥ると状況を改善しようともがけばもがくほど転落してしまうと聞きます。親子の描写からはそうした言葉を連想させます。
こういう例は今日のネットカフェ難民をも彷彿とさせます。雑魚寝でこそなく、冷暖房もあり、パーティションで区切られていますが、当時の貧困層の雰囲気としては近いのかもしれません。
ちなみに、調べている途中でロシア語でかかれた19世紀の貧困層の住宅に関する記事を見つけました。参考までにここにリンクを載せます。そのうち、機会と余力があったら訳して投稿したいものです。
https://arzamas.academy/materials/591


男の子が外に出ることで町の描写になりますが、ここも当時の都会や繁華街の雰囲気がよく伝わります。


「ほろほろした雪を通して、舗石にあたる蹄鉄の音がかつかつと響き、人々はお互いに無遠慮に突き当たっている」


この時代、車道は石で舗装されていたことはなんとなく知ってましたが、馬車が走るところ、つまり車道で使うのは現代人としては意外に感じるのではないでしょうか。自分は特に、蹄鉄の音がカツカツ鳴る辺りに、今日とは全く違う風俗を感じました。昔の風俗というとまずは視覚でイメージしますが、聴覚的にも相違があったのですね。あと文中にはかかれませんが、19世紀の街だと馬糞や石炭の匂いもかなりしたと思います。
ちなみに、検索で19世紀ロシアの石畳の画像をここに貼ります。




また、歩きながら人にガツガツぶつかるなんてことは我々はやることはないと思います。自分が海外で日本との違いを強く感じるのが、すれ違いざまの対応です。都会などの人混みで体が当たりそうになったり、手などが他の人をかすったりした場合、普通現代の日本人は「すみません」と謝罪したり、会釈で謝罪の意を伝えたりするものです。ところがアジアの国などに行くと、それが全くない。ましてやこの時代のロシア人は、「無遠慮に突き当たって」とあるのでかなり異様な光景です。実際20年ほど前に自分がウラジオストクに行った時は、ぶつかりこそしませんでしたが、やはりすれ違いざまの会釈などは全くなく、変に思ったものです。

ガラス窓の向こうで金持ちがヨルカ祝うとこ
「少年はそっと忍び寄り、不意に扉を開けて中へ入った。その時の騒ぎ、みんな手を振り回しながら、かれをどなりつけた。一人の奥さんが大急ぎでそばへ寄って、彼の手に一コペイカ銅貨を握らせると、自分で入り口の戸を開けて、外へ追い出した。」


なんだって貧しい身なりの子供にこの人たちは怒鳴りつけたりするのでしょうか?そんなこと起こり得るのでしょうか?
20年ほど前に自分はウラジオストクに短期留学したことがあります。この時期はロシア財政破綻の直後で、町には浮浪児やホームレスが溢れており、繁華街に行くと子供や赤ん坊を連れた女性の物乞いをよく見かけました。そして、子供の物乞いに絡まれたりした優しそうな青年が怒鳴って追い払ったのを見たことがあります。暮らしが貧しいと浮浪児に施しをあげる経済的余裕もなくなり、優しそうな人でも仕方なく追い払ったりするのだろうと思ったものです。引用の少年を怒鳴りつけた人たちや銅銭を渡した奥さんも同じような心境だったのでしょう。
私ごとですが敗戦直後の都内に自分の祖母が記者で行った時の事ですが、当時中学生の祖母は都内で浮浪児たちに食べ物を請われたそうです。しかし彼女もあげられるものがなく何もしてやれなかったと言います。社会が貧しいと困ってる子供を助けることも我々が思う以上に困難だと言うことなのでしょう。
読書会でフランダースの犬に言及した人たちがいましたが、その作品に限らず19世紀の作品は子供の貧困が出てくるものが少なくないように思えます。マッチ売りの少女などは良い例ではないでしょうか。この手の話はそうした子供の貧困を見て見ぬ振りして生きていた19世紀人の良心の呵責が現れてるのかも知れません。
話の後半、少年がキリストのヨルカの祝いに招かれた場面で、非業の死を遂げた子供たちの例をドストエフスキーが挙げます。


「この男の子や女の子たちは、みんな自分と同じような身の上で、ペテルブルクの役人の家の戸口にあたる階段の上に棄てられたまま、籠の中で凍え死んだものもあれば、養育院でフィンランド女の乳房に圧されて窒息したのもあり、自分の母親のしなびた乳のかたわらで死んだものもいるし」p.184



これらの例はずいぶん具体的に挙げてあることから、実際に新聞や雑誌で作家が読んだ記事から拾ったものなのでしょう。頻繁に町で浮浪児を見かけ、新聞などにも上に挙げたような酷い話が三面記事などに出ていて、そうした話に心を痛めている時に、作家の脳裏にこのような短編が閃いたと言うことかも知れません。
以上、『キリストのヨルカに召された少年』から読み取れる19世紀ペテルブルクの生活は以下のものが挙げられます。
1、貧困層が雑居する地下式の賃貸があった。冬は寒く、地下水の位置によっては湿気がひどった。
2、経済的混乱により地方から出てきた暮らしに困った人たちが多くいて、劣悪な暮らしをしていた。
3、繁華街は馬車が通る車道が石畳で舗装され、蹄鉄の音が響いた。
4、交通マナーが極端に悪く、路上のすれ違い時にぶつかり合いながら歩いていた。
5、幼い子供であろうと人々は浮浪者に冷たく対応した。
6、悲惨な死に方をする児童が少なくなく、恐らく新聞や雑誌にそうした事件が載る事もしばしばだった。

あまり楽しい気持ちにさせる例ではないですが、このように生活描写を調べると作家の生きていた時代の雰囲気がよりリアルに感じられるのではないでしょうか。