2000年ウラジオストック留学③

我々早大生留学生は学生寮とも団地とも着かない建物の三階に居住した。そばには用途のわからない廃屋があり、私とYの部屋からよく見える位置にあった。

 

 

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グーグルマップで見つけた僕らの当時住んでいた団地。写真の人が集まっている入り口から中に入るとライフルを持った門番がいた。今はどうなのだろうか。



恐ろしいのは寮の入り口に銃を構えた兵士が何人も門番をしていたことだろう。我々は寮に入る際、彼らに大学から発行された学生証を示して中に入るのだ。建物の端に螺旋階段があり、螺旋階段の入り口に一人、螺旋階段の途中にデスクがありそのデスクにまた一人兵士がいたのを覚えている。

 

螺旋階段から二階へあがると一旦二回の廊下へと出ねばならない。階段を通った先に別の階段があり、そこを三階まで上ると、丈夫そうな木の扉があり、怖そうなおばさんが門番をしている。彼女はジジョールナヤという下宿管理をする女性なのだ。

基本的に禁酒のこの学生寮で、そとからアルコール類を持ち込む私のような不逞学生を取り締まるのが彼女の仕事らしかった

 

 

 

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グーグルマップより。写真に写ってる部屋のどれかが僕の部屋だったとおもう。手前に写っている売店ではよく酒やつまみを買った。

 

ジジョールナヤに門を開けてもらうと、目の前には食堂があり左右に廊下が伸びている。右に行くとK嬢とA君の部屋があり、左に行くと私とTA嬢とS嬢の相部屋があった。

 

そう、驚くべきことにこの学生寮は男子寮と女子寮が分かれていなかったのである!まことにロシアとはルーズな国である。

 

この階には我々日本人のみならず、中国人、韓国人、などが居住しており、また上の階にもアジア人が居住しているらしかった。食事の時間にもなると、さまざまな国の留学生が三階の食堂に集まり、それはそれはにぎやかなことこの上なく、コスモポリタンな食堂だった。

 

興味深いのは食堂の箸が韓国朝鮮式の金属製の鉄箸だったことだ。おそらく韓国からの留学生が最も多かったのだろう。ちなみに私は朝鮮半島で金属の箸を使うということをはじめて知った。

 

さまざまな国の言語を趣味としてたしなむ私のこと、食堂で出会うアジア人らに中国語、韓国語、それから我々の共通語だったロシア語を駆使して話しかけ交流を深めることはやぶさかではなかった。

 

その中の一人、中国は東北地方から来たヤン・シェンロンという青年と親しくなった。当時はまだ今より北京語がたくみに話

せたので中国人と容易にコミュニケーションが取れたのだ。彼と私はしばしばお互いの部屋を行き来した。私も中国では発行禁止になっているポルノ雑誌を彼に譲るなどして友情を深めていった。東京都内で買ったプレイボーイを彼に見せたのだが、中国では水着グラビアすら禁止だったそうで、滅茶苦茶喜んでいたのを覚えている。