2000年ウラジオストック留学①

2000年の四月に都内の大学でロシア文学を専攻していた私は、その年の8月上旬から9月上旬までロシア連邦ウラジオストックに語学留学していた。

その留学について書いていた文章が出てきた。読み返してみて結構面白そうだったから一部内容をアップしてみる。

 

シベリア鉄道ウラジオストック駅(2019年撮影)

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この文章は2007年に自身のmixiページにアップしたものである。

随所に若気の至り的見苦しい表現が見られる。

あまりに見苦しい箇所は修正を施した。

留学先はロシア沿海州ウラジオストックにある極東国立大学дольно восточный государственный университетと言った。

 

当時極東国立大学の一角だった建物。今は日露関係の博物館か何かになっているようだ。(2019年撮影)

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留学は通っていた大学が学生に斡旋したもので、大学を通して申し込んだ。

(現在この大学は極東連邦大学と名を改め、キャンパスの場所も郊外に移転しており、僕が通ったキャンパスはウラジオストック日本センターとなっているらしい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E9%80%A3%E9%82%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6

 

    2019年追記)

 

ウラジオストックの位置

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現地へは東京から富山県高岡市伏木港まで移動して、伏木から船で渡った。

 

 

極東国立大学では学生寮に住み、外国人向けのロシア語の授業を約1ヶ月受けた。

滞在の間、極東国立大学の日本語専攻の生徒たちが日本人学生の世話やガイドをしてくれて、時折自宅での会食などにも招いてくれた。

 

◆◆◆◆◆◆以下本文◆◆◆◆◆

2000.8月上旬某日

 

 出発の前日、新幹線で富山駅まで行く。せっかちな私は出船の前日に泊まる宿すら考えずに富山に身ひとつで行った。一ヶ月も海外滞在するのにもってた荷物は修学旅行バッグたった一つ!

 

 とりあえず夜富山に着いた。やることもないから野宿だ。駅の入り口にごろりとなってねっころがる。周りを見ると、リュックを背負ったやつらが同様に雑魚寝をしているではないか。

何これ?登山?富山なんかに山があったかな?しかし明らかに登山と思しき人々が大勢野宿している。これは今でも謎である。いったい彼らは何だったのだろうか。(恐らくリュックを背負った集団は富山県立山連峰や黒部を目指した人たちだったのではないかと推察する。  20198月追記)

 

 しかし考えても仕方がないから、ロータリーでバイクを乗り回すヤンキーを幾分恐れつつその日は富山駅前で野宿した(野宿の場所は、うる覚えだが後日富山駅を再び訪れた印象から、富山駅北口のロータリーだったのではと推察する。  20198月追記)。

 

富山駅でヤンキーに怯えながら一夜を明かしたあと、ロシア行きの船が出る港へと向かう。氷見線というのどかなローカル電

車で向かった。

 

 船の出る町は『伏木(ふしき)』という。その名のごとくフシギな町だった・・・失礼。悪く言えば、寂れた感じの町だったんだけど、その寂れ方が他ではちょっとお目につかない独特な味わいを出していて、この町だけでも旅行するにあたいする場所だった。なんつうか、70年代とか列島改造計画以前の地方都市の雰囲気がいまだに残っている感じだった。しかも、町のあちこちには、ロシアと交流しているだけあって、ロシア語の看板やロシア人が歩いている。ノスタルジックな町と、そこを闊歩するロシア人という奇妙な組み合わせ・・・映画にでも出てきそうだ。

 

 

富山県高岡市伏木港の位置

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伏木港

 

伏木駅  駅の裏に波止場があり、そこから船に乗ったように記憶している。(2020年追記)

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伏木駅周辺。駅のすぐ裏に船がつけられるようになっていることが見て取れる。(2020年追記)

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伏木駅を背にロータリーと街を望んだ図(2020年追記)

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 俺は出航よりもだいぶ早く着いてしまったので、メシにしようとした。だが、その町にはコンビニがなかった。

 

 ひまをつぶそうと立ち読みを試みた。書店らしい書店がなかった。

 

 八百屋に入って食べ物を買おうとした。店員が珍しがって『どちらからきたんでか?』と聞かれてしまう。

 

 あちこち歩いて結局駅前スーパーで弁当を買って食べた。

 

 

 

 出航のころになったので、やっとこさ港に向かう。地図に従って進むと、でっかいタンカーが船着場にある。船体にはロシア語でАНТОНИНА  НЕЖДАНОВАアントニー

・ネジダーノヴァ)と書いてある。俺が乗る予定の船だ。どうやらもう乗れるらしい。

 

 船着場には在日ロシア人らがトラックに積んだ品々を船員ら

に売っている。俺も何か買って食おうかとしたが、そのロシア人たちはなかなかガラが悪そうでおっかなかったから遠慮した

 

 船にあがった。さっきのロシア人とは打って変わって船員さんたちはえらく感じの良い人々だった。とくに女の子のメイドさん、俺がロシア語で話し掛けると、『あら、話せるの?』とニコッと笑顔を見せる(今思えばメイドなどではなく、女性の接客要員だった。 2020年8月追記)。あんまりそのロシア人が美人だったのと親しげにしてくれるので、俺は思わずのぼせてしまった

 

 船は出航前にもかかわらず、とにかく揺れる。甲板にでるとすごく気持ちいいが、手すりがえらく潮風でベトベトだぁ。

 

 さっきの親切な船長さんに割り当てられた部屋まで向かう、すると・・・・ドンッ!三人の男と相部屋!

 

日本人の兄ちゃん、ノルウェー人の漁師さん二人だった。あんちゃんは物静かな人であまり話とかしてくれるタイプじゃなかったし、ノルウェーの漁師さんらは英語を一応話せるが、訛りがひどくてよくいってることがわからない。前途多難な組み合わせである。

 

 数時間後、船が伏木を離れた。ウラジオストック港まで二泊三日の船旅である。

 

 

陸が遠くなる。甲板で夕日に照らされつつ、旅情を味わえた。

見渡す限り大海原とはよく言ったものだ。本当に回りは海しかなかった。

 

 私の乗った船はアントニーナ・ネジダーノワ号というのだが、この船はロシア商人たちも多く利用していた。商人とはいいながら実際はマフィアみたいな連中ばかりだった。客船のはずなのに、実際には甲板の多くの部分が大量の車によって足の踏み場がない状態だった。私はわずかな隙間や数少ない広々とした場で旅情を味わっていたのだが。なぜ、その様に大量に車があったのかといえば、そのロシア人商人たちが日本車を大量に中古で購入するのだ。安価で購入した日本車をロシアで高く売っているらしい。

 

 後日談だが、私がウラジオストックの街中を歩いていると、なんと奇妙なことだ!ロシアの街中を日本の保育園バスが走っているではないか!いっしょにいたロシア人の友人に尋ねると、なんとあんなんで、ウラジオストックの公営バスらしい。つうか、思いっきり『○×幼稚園』ってロゴが車体に書いてあったんだけどね。幼稚園バスもあのように公営バスに使ってもらい、さぞ『光栄』だったろう・・・・このように、北陸とロシア極東地方は奇妙な経済交流が行われているのだ。余談が過ぎた(司馬遼太郎の真似)。船内に戻るとしよう。

 

 船内はあの人の良い船長さんや美人のロシア人メイド、マフィアとも商人ともつかないロシア人たち、のほかに多くの日本人らもいた。一人はその後一緒に留学に参加したAさん、子連れの家族旅行などさまざまであった。狭い船内に、柄の悪いロシア人ばかりだったため、すぐに日本人同士親しくなる。元出版会社に勤めていた兄さんと親しくなった。聞けば俺が昔愛読していた月間ラナーズ(ジョギングの月刊誌)の社員さんだったとか。かかか、感激だ。

 

 そのほか、退職したおじさん、学生さんの四人で彼らの相部屋にいき(私の相部屋は微妙だったから)酒を飲んだり、お菓子を食べたりした。

 

 親子連れの人はまじめそうなお父さん、おくさん、五人の子供らがいた。えらく子沢山だった。何でも有給でロシアに行ってレンタカーで遊ぶ予定だとか。しかし、周囲の柄の悪いロシア人らを見ていると、あんなたちのわるい連中の本国で子連れ旅行など危ないも良いところだ、といった顔をしていた。

 

 NGOの子供旅行にもであった。子供ら20人程度と引率の大学生の男女だった。

 

 

上でも述べたように、船内のロシア人たちは若干柄の悪そうな人たちが多かったし、半分マフィアのような人たちも少なくなかった。

しかし、20人あまりの小学生らは、ロシア人商人たちの前で無邪気に飛んだりはねたりして騒ぎまくっていたのである!

無論、引率の大学生たちはそのロシア人商人たちがヤバい人たちだと察しては居た。そのことを何とか子供たちに伝えようとしているのだが、無邪気で怖いもの知らずの子供らにはそのような戒めはどこ吹く風だった様だ。確か普通に子供たちはマフィア風ロシア人にじゃれついたりして、引率の大学生たちがヒヤヒヤしていたのを覚えている

 

この子供達はウラジオストックについたあと、シベリア鉄道に乗って、モンゴルに向かうとい言っていた・・・・はたしてあのような道行が無事成功するのだろうか。四年経った今でも(草稿当時は2004年だった)心配であるが、ロシアやモンゴルで日本人の子供たちがさらわれたとか、殺害されたとかいうニュースは一向に聞かないので、恐らくあんな騒がしい子供たちでも無事行って帰ってこれたのだろう。

 

 

 

 さて、冒頭でも述べたとおり海の旅はロマンチックである。大海原の広々とした感じは当然ながら言葉で言い表すことはできないだろう。アナログ写真でもあればスキャンして公開しよう、と思うのだが、残念ながらカメラを購入したのがロシア滞在中に女の子たちと海に行く前日(無論彼女らの水着姿を納めるために)だったため、私の感動を読者たちに伝えることはできない。

 

 日本海は深いことで有名だが、実際その水は真っ青で真っ暗くて、その色から海の深さが実感された。この真っ暗い水の先に黄泉の国でもありそうで、恐ろしかった。余談だが、私がアントニーナ号で向かっていたウラジオストックはかつて渤海王国の版図だったし、そのもっと前は高句麗(学校の古代史で習ったはずである)の領土。古代には朝鮮族と和国との交易のためにこの暗くて深い海を筏やカヌーでわたったはずだが、現代の巨大客船で渡るだけでも恐ろしいのに、筏やカヌーで行き来した古代人らの肝っ玉にもびっくりだ(古代人が本当にあんな潮の荒い海をカヌーや筏で渡ったのか、今となっては疑問だ。日本海の潮はかなり荒くて、今でも覚えているが大雨の日の川みたいな流れがあった。実際は大型の遣唐使船みたいな船で渡ったんではないかと今は思っている。それでも相当危険な旅だったんだろうけど。  20198月追記)。

 

 大海原では面白いものに遭遇した。北朝鮮と思しき陸を遠くに望んだり、鯨と遭遇したりもした。前者は航海2日目だったろうか・・・晴れた海原の遥か先に明らかに陸地と思しきものが見えた。時間的にロシアにしては早すぎるし、かといって韓国にしては北過ぎた。そうしたことから、北朝鮮だと結論付けていたのだが、未だにあれはどこだったのかわからない。

 

 後者は私が船室で例の道行き仲間らと酒を交わしていたころに遭遇した。例の子供らは甲板で盛んに遊んでいたのだが、彼らが『鯨だ!鯨だ!』と騒ぎ出したのだ。鯨を見るなどまたとない好機と思い甲板に飛び出したが、残念ながら鯨は見れなかった。じゃあ遭遇してないじゃん、と突っ込まれそうだが、鯨とニアミスしたというだけでも私にとっては記念するに値する事柄なのである。

 

 

 このようにして三日間の船旅を過ごした後、ついに初めてユーラシア大陸に足を踏み入たのだった。ここで探した1ヶ月は留学にしては短すぎるが僕にとっては忘れられないものとなるのである。